「もう、忘れた方がいい…」
長野県松本市に出張した時の事です。
東京から朝一番早く到着するスーパーあずさ1号で松本駅に参りました。
取引先へ向かうのに、タクシー乗り場へ向けて駅の階段を下りている時、携帯電話がけたたましくなりました。
その時は本当にけたたましく、感じたのです。
電話の主は小学校の頃から兄弟の様にして育った友人でした。
彼は先日結婚したばかりでした。
素晴らしい結婚式で、職業が船乗りだから、やっぱり船上の結婚式となりました。
船乗りで1年の内、日本にいるのはわずかな期間だけです。
結婚後初の航海を終え、自宅に帰ると誰もいないとの事。
奥さんは「私が悪い」の1点張りで話にならないとの事でした。
これから取引先と商談がある旨を説明し、夜に再度連絡をする事としました。
その夜連絡をしましたが、話がとりとめがないので、近々に夕食でもしよう決め、その日の話を終わらせました。
東京で彼と夕食をしました。
彼自身には思い当たる事がなく、理由がわからない。
乗船中に急に連絡が取れなくなり、帰宅したら自身の荷物は引上げ何もない。
わずか1か月の事です。
「結局…」と彼はこの言葉を繰り返していました。
私は黙って、頷きながら聞いていました。
彼が「結局…」を1時間近く繰り返した後、私は言いました。
「結局って、何度言っただろうね」
「…」
「どこまで理由を考えても、きっとわからないな…」
「…」
「理由なんて、本当の理由なんてお互いにだってわからないのではないのか」
「…」
「きっと、明確なこれだという理由はみつからないよ」
「…でも、こんな事って」
「もう、忘れた方がいい…」
しばらく、彼は私をじっと見つめていました。
「話を聞いてもらえてよかったよ…」
彼はそれ以上、何も話さなくなりました。
彼の哀しみとさびしさが伝わり、たまらなくなりました。
「忘れてしまえ」殴り飛ばして、ふたりで子供の頃の様にケンカができたら、どれだけよかったか。
うつむいていた彼が顔を上げた時、大粒の涙が彼の頬をつたって行きました。
「ケンシロウ、なんで、どうして…」
「ケンシロウ、なんでこんなに涙が出るんだ…」
いくつもの涙が、大粒の涙がつたって行きました。
私は彼に、グラスがあふれるぐらいワインを注ぎました。
やがて彼は自分より10歳以上若い、新しい伴侶を見つけて結婚しました。
家族も増え、今は若い奥さんにすっかり参っています。
先日、大阪へ本人がひとりで来ました。
可愛い3人の子供の写真をうれしそうに私に見せます。
「俺から2度も祝儀をもらったのはお前だけだ。今日はご馳走しろ!」
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