読書

2026年4月24日 (金)

記憶の底に隠した一冊 ―『呪いの館』と『ミルキーウェイ』―

Akatsuki231

小学生の頃、心霊写真やオカルトは大ブームでした。
友達が学校に持ってきた心霊写真の本を、みんなで囲んで見ては「怖いー」と騒ぐ。
そんな光景が日常でした。
けれど私は、心のどこかで「なんでこんな本を買うんだろう」「家に置いておきたくないな」とも思っていたのです。

夏休みになると、お昼の番組で放送されていた「あなたの知らない世界」も話題でした。
そんなオカルト全盛期に、クラスのほとんどが貸し借りして読んでいたのが、楳図かずお先生の『呪いの館』です。

これはオカルトなのですが、どこか人間臭く、すぐ隣にある日常の延長のような感覚がありました。
純粋な「あの世」の話ではなかったからかもしれません。
内容は確かに怖い。
設定もさることながら、何より「人間の所業」であることが恐ろしいのです。
当時は、その恐怖の正体が「人間の業」であるとは区別できず、醜い姿をした主人公に恐怖が集約されているのだと思っていました。

しかし、物語の終盤で主人公は自らの悪行を告白し、許しを請います。
自分の弱さを認め、ただ「誰かに大切にされ、愛されたかった」と吐露する。
単なるホラーで終わらない展開は、小学生の私には衝撃的でした。
自らの行為を悔い、最後に許しを乞うその姿は、それまでの勧善懲悪の物語では出会ったことのないものだったからです。

…もちろん、その本も家には置きませんでした。
当時の私は、そんな本を所有したいとは思いもしなかったのです。

さて、小学生の頃は「男女の区別」が時として大きな壁になります。
少女漫画を読んで「面白かった」なんて、口が裂けても言えないお年頃。
当時、絶大な人気を誇っていた『週刊少年ジャンプ』が私も大好きでした。

その一方で、幼い妹の横で一緒に観ていたテレビアニメ『キャンディ・キャンディ』にも、大河ドラマのような重厚さを感じ、密かに惹きつけられていました。

そんな環境で出会った、太刀掛秀子先生の『ミルキーウェイ』。これもまた衝撃でした。
平穏な環境で育った私にとって、『ミルキーウェイ』は『呪いの館』と設定こそ違えど、ヒロインが抱える「孤独」が切実に伝わってきたのです。
それはおそらく、これまでにない内面的な初体験でした。
しかし、やはり「少女漫画を読みました」とは絶対に言えず…。

結局、当時は買うことができず、大学生になってから古書店で見つけて手に入れました。
あの本は今、実家のどこかに隠れているかもしれません。

私の記憶と同じように。

2025年9月29日 (月)

映画「きみはいい子」、痛ましいニュースから考える「誰かを救う力」の事。

Akatsuki224

先日、胸が締め付けられるような痛ましいニュースが報道されました。
わずか2歳の幼い命が、親からの虐待によって奪われたという出来事です。
痩せ細った身体、治療されることのないまま傷つけられた骨折の痕。

その絶望は、想像するに余りあります。

亡くなった女の子にはお兄さんがいたそうです。
彼が背負うことになった心の傷は、どれほど深く、容易には癒えないだろうと考えると、言葉を失います。

世界を救えなくても、「誰か」は救える
そんな時、ふと頭に浮かんだのが、中脇初枝さんの小説、そして映画化された作品「きみはいい子」です。

私は映画を先に観て、その後に原作を読みましたが、どちらも素晴らしかった。
作品が問いかけるのは、虐待や育児放棄という現実の厳しさ、そして、それにどう向き合うかという、「優しさの連鎖」というテーマです。

物語を通して描かれるのは、「子供に優しくすることで、その子供もまた誰かに優しくする。やがて、世界はやさしさで満たされる」という希望です。

もちろん、これは夢物語のように聞こえるかもしれません。
しかし、映画のCMに使われた「世界を救うことはできなくても、誰かを救うことはできる」という言葉には、単純でありながらも底知れぬ深さがあります。

底知れぬ深さを持つ、小さな優しさ
私たちは皆、世界中の悲劇を止めることはできません。
大きな社会システムや構造を変えることは、非常に困難です。

しかし、目の前にいる「誰か」に、優しく声をかけること、温かい手を差し伸べること、話を聞いてあげることはできます。

「誰か」を救うという、手の届く範囲の希望。
この個人的な行為の積み重ねこそが、絶望に満ちた世界に光を灯し、痛ましい連鎖を断ち切る唯一の方法ではないでしょうか。

今、私たち世界中の人に求められているのは、この単純だけど奥の深い、「誰かを救う力」なのかもしれません。

*映画『きみはいい子』予告編

映画の雰囲気に触れてみたい方は、ぜひ予告編をご覧ください。
映画「きみはいい子」予告編

2025年9月11日 (木)

徹夜の読書と不純な動機。

Akatsuki222

吉行和子さんの訃報が報道されていた。
本日の日本経済新聞の1面コラム「春秋」も吉行和子さんの事だった。

中学生1年生の時、吉行和子さんのお兄さんにあたる吉行淳之介の著書「ぼくふう人生のノート」を読んだ。
徹夜で読み、母親から「徹夜で読んだのは、その本か…」と半分がっかりしながら、半分笑われながら言われた。
何気なく手に取った。
文庫だったので、中学生のお小遣いでも買えたのだと思う。

吉行淳之介さんのパーソナルな事は知らなかったし、ただ手に取った本が面白かったので読んでしまったのだ。
恋に恋する年頃であるが、大人の男女の、その未知の世界に引き込まれたのだ。

著作の中に引用され登場する文学作品もオペラも、まだ読んだり聴いたりした事がないものだった。
これ以降、その文学作品を読み、音楽を聴いても、この本と結びつけて記憶がよみがえる事はなかったと思う。

これまで読んだ本の中にはなかった著作の中の、ウェットな表現に惹かれた。
そんな言葉が、上手に女の子の前で使えたらいい。
かっこをつけるために読んだ。
そんな不純な動機だろう。

おそらく自宅の本棚にはあると思う。
読後の本はたくさん売ってきたが、そんなおぼろげな記憶が、この本を売る側にさせなかったのだろう。
本棚にあるその一冊は、単なる物理的な存在ではなく、当時の自身の心境や、あの夜の空気感を思い出させてくれる、タイムカプセルのようなもの。

吉行和子さんのご冥福をお祈りいたします。

2025年7月23日 (水)

夏休みと読書感想文、そして宮沢賢治「よだかの星」が問いかけるもの。

Akatsuki221

朝の通勤中、集団登校の小学生の姿が見えなくなりました。
そう、夏休みですね。

今は読書がとても好きですが、小学生の頃は決して好きな方ではありませんでした。
特に、夏休みの宿題の読書感想文。
あれは本当に嫌でしたね。

我が家では、母の厳しい「検閲」が入ります。
去年と同じ本で感想文を書こうものなら、即座に却下。
大急ぎで違う本を斜め読みしては、できた感想文はあらすじばかり。
最後には「おもしろかたです」と句読点も忘れた一言で終わり。
当然、「これはあらすじだ」と書き直しを命じられます。

敵もさるもの引っ搔くもの。
小学生のつたないごまかしは、母には通用しませんでした。

そんな思い出が蘇ると共に、ふと思い出したのが宮沢賢治の「よだかの星」です。
小学生の頃は、その意味もよく理解できず、ただ「よたかがかわいそうだと思いました」という感想しか抱けませんでした。

先日、何十年かぶりに読み直しました。
大人になって読み返す作品は、やはり感じ方が全く異なります。

「よだかの星」の主人公である夜鷹は、容姿を嘲笑され、名前を否定され、声が気味が悪いと言われる。
なに一つ自分で選択した結果ではないのに、誰からも疎まれる存在です。
自らを否定され続け、自己肯定感など木っ端みじん。
何にもなれない自分に、深い絶望感がのしかかります。

■自分の居場所はない

孤独が絶望を呼び寄せ、その絶望が、さらに自らを否定していく。
まるで、今の世相を映し出しているようで、人間は変わっていないのか、あるいは進歩していないのかと問いかけられているような感覚に陥りました。
その背景には「恐怖」があるのかもしれません。
自らと異なるものを受け入れず否定し、排除しようとする。
これはまさに、いじめの構図そのものです。

存在価値を見出せず苦しむ夜鷹は、最後には自ら星になることを望みます。
この結末を「希望」と捉えるのは、私にはあまりにも辛すぎます。

「他者からの承認を得られなくても、自らの意思で高みを目指し、本当に光るものになりたい」

それは、いつも自分のことを思い出してほしいという、孤独と絶望の裏返しであると感じてなりません。
夜鷹が星になったことで、他の生き物たちに明るさをもたらしたという描写は、確かに「救い」となっているのかもしれません。
それでも、やはり辛すぎる物語です。

■「理解できないもの」への反応

私たち人間には、誰しも自分で理解できなかったり、受け入れられなかったりするものを、否定したり、遠ざけてしまったりすることがあります。
例えば、そのような人を「いじめる」ことで、相手が自分と同じように絶望するのを見て安心し、ようやく「理解のためのトラック」のスタートラインに立つことができる、と錯覚するのかもしれません。
しかし、そのスタートラインはあまりにも歪んでいます。

そして、そこで得られる安心は長くは続きません。
同じことを繰り返しても、真の安心は得られず、いつ自分が遠ざけられ、疎まれる存在になるかもしれないという根源的な恐怖は拭えないままです。
いつまで経っても、本当のスタートラインには立てないのです。

…と、ついつい熱くなって読書感想文を書いてしまいましたね。
でも、あらすじだけではないから、これでOKですよね!

2025年5月27日 (火)

税と格差の根源はどこに? 卑弥呼の時代から「サピエンス全史」が問いかける人類の苦悩に思う事。

Akatsuki012

選挙が近くなると、必ず減税の話が話題になります。
各方面から思惑がにじむ様々な発言が有り、マスコミもこぞって取り上げます。

小学生で歴史の勉強を始めた時、邪馬台国の卑弥呼が税金の仕組みを導入していた説明がありました。
それは自然発生的に出た話かもしれませんが、幼い私には「思いついた人がすごい!」と思える事でした。

フランスの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の著書「サピエンス全史」で論じられているのは、この事に始まる人類の苦悩です。

狩猟生活から農耕生活への移管が、人類の歴史における「分断」の始まりです。
人類の歴史を振り返ると、私たちの社会が抱える多くの問題の根源が、ある決定的な転換期に見えてきます。
それは、狩猟採集生活から農耕生活への移行です。
一見、進歩と見えるこの変化が、実は人類に「分断」をもたらすきっかけになったのかもしれません。

喜びも悲しみも分かち合う事の出来た狩猟採集の時代。
かつての狩猟採集社会では、人々は獲物を追い、木の実を採集して暮らしていました。
その日暮らしが基本で、獲れたものはその場で皆で分け合うのが常。
貯蔵という概念も希薄だったため、「私だけのもの」という所有の意識はほとんどありませんでした。

獲物が多ければ皆で喜び、少なければ皆で飢えをしのぐ。
そこには明確な貧富の差や格差は生まれにくく、人々は互いに協力し合い、助け合って生きていました。
現代の私たちが憧れるような「喜びも悲しみも分かち合う」という共同体の精神が、色濃く息づいていた時代だったと言えるでしょう。

そして、農耕は「所有」と「格差」の芽生えをもたらします。
しかし、約1万年前、人類は決定的な変化を迎えます。
それが農耕の開始です。

人々は定住し、穀物を栽培するようになりました。
そして、この穀物を貯蔵するという行為が可能になったことが、すべてを変え始めます。
余剰の食料を貯めておけるようになったことで、「所有」という概念が生まれました。

土地の豊かさや労働力の違いによって、収穫量に差が生まれると、「持てる者」と「持たざる者」という区別が明確になっていきます。
これが、貧富の差、ひいては社会的な格差や差別が生まれる最初の土壌となります。

そうして広がる「疑心暗鬼」と「嫉妬」
富の偏りが生じると、人々の心にはそれまでになかった感情が芽生え始めます。
「なぜあの人だけが豊かなのか?」「自分はこんなに頑張っているのに」

このような比較から、疑いや嫉妬といった感情が広がり、それまでの共生意識は薄れていきます。
個人の利益を優先する傾向が強まり、共に喜び、共に悲しむという、かつての分かち合いの精神は、徐々に希薄になっていったのです。

この事を後戻りできない事を承知しながら、「サピエンス全史」が問いかける人類の選択に改めて考えさせられました。
この人類史における大きな転換点と、それに伴う社会の変化は、フランスの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の著書「サピエンス全史」でも詳しく論じられています。
ハラリ氏は、農耕革命を「史上最大の詐欺」とまで呼び、人類が本当に幸福になったのかどうかを問いかけています。

確かに、農耕は人口を劇的に増やし、文明の発展を促しました。
しかしその一方で、所有の概念を生み出し、格差、差別、そして人々の心に疑心暗鬼や嫉妬といった感情をもたらしたのも事実です。
そして、この仕組みを維持するポイント。
ハラリ氏は、貨幣、国家、法律、そして宗教といった「虚構」(共通の物語や信念)が、大規模な協力と社会の組織化を可能にしたと説いています。
しかし、この「虚構」が、しばしば想像上のヒエラルキーや差別を生み出す要因にもなったと指摘しています。
農耕社会で生まれた所有や階級も、この「虚構」によって支えられていった側面があります。

今、世界ではレアアースや水、必要な資源を求め争いが続いています。
避けて通れない、この歴史的な転換点をどう捉え、現代社会に蔓延る格差や分断の問題をどう解決する。

例えば身近な小さな集団である家族、学校、会社の中ですら、同様の問題があります。
知の巨人たちには、この地平の果てが見えているのでしょうか。

2025年5月20日 (火)

本当に求めているはずの幸福について深く考えることを避けてしまっている。

Akatsuki012

花が咲いていても何も感じず、咲いていることすら気づかない時がありました。
今、花が咲くことをうれしいと思うことがあり、その思いを人と共有することもあります。
見えているものも、見えるものも、時々で変わってゆくと思います。

かつては、読書の中に含まれるビジネス書は7割を占めていました。
事業を成功させた人、新しい仕組みを作り上げた人。
何か自分のビジネスの中で、活用できることがないかと求めて読んでいました。

今、ノウハウよりも、人の心の動きがわかる物語や人の物語の本が7割になりました。
知の巨人たちの、その知の片りんに触れることで、花が咲くことに、花が咲いていることを知ります。
気づかされることがあります。

幸福について考えることはすでに一つの、おそらく最大の、不幸の兆しであるといわれるかもしれない。
健全な胃をもっている者が胃の存在を感じないように、幸福である者は幸福について考えないといわれるであろう。
しかしながら今日の人間ははたして幸福であるために幸福について考えないのであるか。
むしろ我々の時代は人々に幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸なのではあるまいか。
幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか。
しかしながら幸福を知らない者に不幸の何であるかが理解されるであろうか。
今日の人間もあらゆる場合にいわば本能的に幸福を求めているに相違ない。
しかも今日の人間は自意識の過剰に苦しむともいわれている。
そのきわめて自意識的な人間が幸福についてはほとんど考えないのである。
これが現代の精神的状況の性格であり、これが現代人の不幸を特徴付けている。

人生論ノート 幸福について / 三木 清

三木 清の言葉は、現代社会の病理を鋭く抉り出しているように感じます。
およそ80年前の、その時を生きた人の言葉が、あまりに今を相似形として映します。

「幸福について考えることはすでに一つの、おそらく最大の、不幸の兆しである」という冒頭の言葉は、一見すると逆説的ですが、深く頷けます。
本当に満たされている状態であれば、わざわざその状態を意識したり、言葉にしたりする必要はないのかもしれません。

しかし、現代においては、「健全な胃をもっている者が胃の存在を感じないように、幸福である者は幸福について考えない」という自然な状態が失われているのではないか、という問いかけは非常に重いです。
むしろ、多くの人が日々の忙しさや社会のプレッシャーの中で、幸福を感じる余裕すら失ってしまっているのではないでしょうか。
「幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸」という指摘は、現代人の心の疲弊を言い当てているように感じます。

「幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか」という言葉には、現代社会の閉塞感や、他者の幸福を素直に喜べないような空気感が漂っているように感じます。
SNSなどを見ていると、他者のきらびやかな生活が目に飛び込んできますが、それがかえって自身の幸福感を相対的に低下させてしまうこともあるかもしれません。

しかし、その一方で「幸福を知らない者に不幸の何であるかが理解されるであろうか」という問いかけは、幸福を追求することの重要性を改めて教えてくれます。
不幸を知るからこそ幸福を求める、あるいは幸福を知っているからこそ不幸に気づくことができるという、両者の相互的な関係性を示唆しているように思います。

そして、「今日の人間もあらゆる場合にいわば本能的に幸福を求めているに相違ない。しかも今日の人間は自意識の過剰に苦しむともいわれている。そのきわめて自意識的な人間が幸福についてはほとんど考えないのである。これが現代の精神的状況の性格であり、これが現代人の不幸を特徴付けている」という洞察は、まさに今を生きる我々の矛盾を突いていると言えると思うのです。
私たちは常に自己を意識し、他者と比較することで疲弊しているにもかかわらず、本当に求めているはずの幸福について深く考えることを避けてしまっているのかもしれません。

誰もが幸せになりたい事に、何も疑う余地はありません。
自分のその気持ちに気づくことが、初めの一歩なのだと思います。

殺伐とした事件の報道が続く中、三木 清の言葉が心に浮かびました。

三木 清は単に過去の哲学者としてではなく、現代を生きる私たちにとっても重要な示唆を与えてくれる「知の巨人」だと改めて感じます。
その言葉を通して、多くの人が立ち止まって自身の幸福について考え、より良い生き方を見つめ直すきっかけになりはしないだろうかと考えるのです。

文中は敬称略としております。

2025年4月15日 (火)

誰もがみんなつまづいて、擦り傷、切り傷、打ち身に捻挫。

Akatsuki219

本日の通勤は「James Taylor」 の「 Never Die Young」です。
いつもはハードに行くのですが、今日はソフトアンドメローにです。

若い頃は、正直退屈な範疇の音楽だったと思います。
子供で、その良さが理解できない…そんなところだったと思います。

アルバムタイトルを直訳すれば、「若いうちに死ぬのはダメ!」と言ったところでしょうか。
楽曲の中では、もう少しやわらかく語られます。
発売時から賛否両論あったようですが、私はこのアルバムジャケットが大好きです。

失恋をすれば、明日も見えなくなる。
仕事で失敗をすれば、もう取り戻せないと落ち込む。
目の前の出来事に、身動きすらとれなくなる。

Yes oter hearts were broken
Other dreams ran dry
But our golden ones sail on,sail,on
To another land benearh another sky

James Taylor / Never Die Young

心は傷つき、夢は潰えた
でも、私たちの黄金の心は航海を続ける、続けるんだ。
新しい空の下と、新しい大地の上で。

あやしい和訳 / ケンシロウ

傷ついた心で立ち上がり、新しい世界を見出してゆく。
新しい世界へと旅立つ勇気。
新しい世界で活躍し、未来がつらい過去を乗り越えて行く。

私はそんな物語が大好きです。

―これから、どうしようか。
気がつけば、友だちとはすっかり疎遠になり、好きな誰かがいるわけでもなく、尊敬する上司や先輩に恵まれたこともない、そんな状況になっていた。
故郷で見守ってくれている父と母には打ち明けられず、私は、いつしかひとりぼっちで人生の脇道にぽつんと佇んでいた。
―どうしようもないな…。

原田マハ / <あの絵>のまえで さざなみ

「A Piece of Your Life」という副題がついています。
なんて素敵な言葉なのだろうと思います。
そんな人々が未来へと、新しい一歩踏み出す6篇の珠玉の物語があります。

映画「ルックバック」も同じ。
だから、誰もが物語へ引き込まれる。

誰もがみんなつまづいて、擦り傷、切り傷、打ち身に捻挫。
でも、汚れをはらって、立ち上がる。
だから、この世には様々な応援歌があるんですね。

みんな、いつかの自分だから。

2023年10月31日 (火)

彼の本当の哀しみをわかっていたのは、あの人だったかもしれない。

Akatsuki198

彼の本当の哀しみをわかっていたのは、あの人だったかもしれない。

三島由紀夫の小説「金閣寺」
読んだのはずいぶん前ですが、金閣寺に火をつける主人公が、精神的に追い込まれていく様は迫力でした。
迫力というより、怖い。
迫力でしたと書くのは、それが実際にあった事件である事を、当時は知らなかった事によります。
金閣寺が消失した事は知っていても、その背景は知らなかったのです。

先日、NHKのアナザーストーリーで、実際の金閣寺焼失の事件を取り扱っていました。
犯人の林養賢の生い立ち、実際の事件経過とその後の家族の事。
林養賢の人物像を語る、幼馴染や周辺の人々。
そして、林養賢の師としての、金閣寺住職の慈海の事。

金閣寺の再建に取りかかる慈海住職。
托鉢から始め、その姿に人々が動き出す。

林養賢は心を病み、病気でこの世を去ります。
この間、慈海住職は林養賢に差入を続けます。

林養賢が亡くなった後、事件後に投身自殺した林養賢の母親と共に戒名をつけ金額時で供養します。
放火焼失事件の事を聞かれても、「私の不徳です」と、それ以上の事は語りません。

苦しんでいた、林養賢のその哀しみを、金閣寺を放火焼失させるという事実まで、気づいてやる事が出来なかった。
その事実があって、初めて弟子であった林養賢の本当の哀しみと苦しみを知った。

彼の本当の哀しみをわかっていたのは、あの人だったかもしれない。

遠藤周作の「イエスの生涯」
この中、ユダの記述が多く書かれています。

ユダと言えば、裏切り者の象徴。
しかし、「イエスの生涯」の中では、イエスの弟子の中で、唯一師の本当の苦しみを理解していたのは、ユダだったとあります。

なぜ、嘲りを受け、誤解と裏切りの中で、イエスは死なねばならなかったのか。
その本当の理由を知ったユダは、生きてはいられなかった。

彼の本当の哀しみをわかっていたのは、あの人だったかもしれない。

人の世の、繰り返されるこの哀しみに終わりがあるのだろうか。
絶望しそうになる、その時、それを終わらそうとしているのも、この世の人である事。
その事に、勇気が湧いてきます。

*文中敬称略としております。

2023年10月 4日 (水)

現実と思い込み。

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ジャニーズ事務所の問題は、マスコミを連日にぎわせ、ニュース番組のトップになります。
同じ内容が繰り返され続け、少々食傷気味です。

ベストセラーになったファクトフルネス。
先日ブックオフで、同書がワンコイン(500円)で販売されていました。
良書なので、多くの人の目に触れるといいな…とその時思いました。

この第9章犯人捜し本能「誰かを責めれば物事は解決する」という思い込み…があります。
犯人捜し本能を抑えるには、誰かを責めても問題は解決しないと肝に銘じよう…とあります。

マスコミは、世界中で発生している不幸な状況を報道します。
マスコミの使命でもありますが、視聴者の関心をひくためにも、センセーショナルであったりします。
我々はそれを注視します。

自分の環境と比較して、恵まれている事を認識し、安堵します。
過酷な環境にある人々へ、憐憫の情を送ります。
私を含む人は、どうしても否定できない、そういうところがあります。

フジテレビのワイドナショーで、ダウンタウンの松本さんが言っていた事。
その後はどうなったのか。
それが、とても大切な事だと思う事があります。

人の不幸は蜜の味で、大きな変化の無い話は退屈な事柄なのかもしれません。
でも、それが思い込みを解消して行く大きなファクターなのだと、著者の意見に賛同するのです。

同書は豊富な図案とわかりやすい表現で、とても読みやすい本でした。
我々が陥りやすい事例が豊富で、誰でも思い当たる部分があるのではないか。

ネットニュースなど、センセーショナルなるで思い込みを誘発しやすい記事があふれています。
それを冷静に判断するとは、どういう事か。
とてもわかりやすいと感じたのです。

しかし、目前の厳しい現実に対し、世界は良く、良い方向に変化していますと理解するのは難しいです。
でも、事例は希望に変化する事がある。
約2年前に、新型コロナウィルスをただセンセーショナルに伝えるワイドショーを、冷静な目で見る事が養えるヒントがあります。

訳者さんのあとがきが、この本の性格を言い当てていると思います。

この本が世の中に残る一冊になるだろうと考える理由は、この本の教えが「世界の姿」だけではなく、「自分の姿」を見せてくれるからです。
知識不足で傲慢な自分、焦って間違った判断をしてしまう自分。
他人をステレオタイプにはめてしまう自分、誰かを責めたくなってしまう自分。
そんな自分に気づかせてくれ、少しだけ「待てよ、これは例の本能では?」とブレーキをかける役に立ってくれるのが、ファクトフルネスなのでしょう。

ファクトフルネス /  ハンス・ロスリング、 オーラロスリング、 アンナ・ロスリング・ロンランド
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2023年9月 8日 (金)

仲の良い夫婦は、顔が似てくる。

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私たち人間が、他の生物と異なるのは、それぞれ違う人同士でも物語を共有できるからだ。
目の前にある現実が、やがてこうなると理解し、その物語を信じていれば今だけでなく、これからを見据えて生きる事が出来る。
…と、ユヴァル・ノア・ハラリ氏のホモデウスに書かれていたと思います。
引用ではなく、私の理解の範囲であり、一部分の要約です。

ユヴァル・ノア・ハラリ氏の著作は、いつも新鮮な驚きや新しい発見や理解があります。
読み進めるのに時間が必要ですが、好んで読んでいます。

じつを言うと、経験する自己と物語る自己は、完全に別個の存在ではなく、緊密に絡み合っている。
物語る自己は、重要な(ただし、唯一のというわけではない)原材料として私たちの経験使って物語を創造する。
するとそうした物語が、経験する自己が実際に何を感じるかを決める。
私たちは、断食月の間に断食するときと、健康診断のために食事を抜くときと、お金がなくて食べられないときとでは、空腹の経験の仕方が違う。
物語る自己によって空腹の原因として挙げられた意味次第で、実際の経験も大幅に違ってくるのだ。

ユヴァル・ノア・ハラリ / ホモ・デウス(下巻)

こちらは引用です。

新・ドキュメント太平洋戦争は、その時代を生きた方々のエゴドキュメント(その時代を生きた人々の日記や手記)を時間軸として構成されています。
世間で起きた事象を、前述の引用の通り、そのおかれた環境下で異なっています。
経験から物語が作られますが、その物語は同じものがありません。

こうして書いているブログも、2023年の…なんて、個人の所感から検証され、構成される日が来るのでしょうか。
デジタルの記録は、その時代より多くの証言や所感をまとめられる事と思います。
発言が容易であり、誰の言葉かわからない。

人と人が理解しあうのは、大変な事だと、こういう論拠からも思います。
国が違い、文化が違う事からは勿論、言葉が違う事も、理解のための障壁となります。

仲の良い夫婦は、顔が似てくると言います。
同じものを見て、同じように笑い、哀しみ、喜ぶ。
共通の出来事が増える事によって、価値観が同じに近づいて行きます。
それを別の表現で、顔が似てくるというのでしょう。

夫婦に限らないと思います。

恋人同士が別々の場所から、空を見上げて同じ月を見て「きれいだね」と言えるのはわずかな時間です。
互いに理解しあうのは、時として傷つく事があり、気づく事があり、その先なのだと思います。
これは、なかなかシンドイ作業です。
なぜなら、誰も傷つく事など、望んでいませんものね。