音楽

2026年4月28日 (火)

見えない綱渡りの方が、迷いなく進めるのかもしれない。

Akatsuki232

私はクラシックの中でも、ロマン派の作曲家が好きです。
知識が深いわけではないので大雑把な分類ですが、その後の「現代音楽」と言われるものは、どうしても好きになれません。
「同じメロディの繰り返しは聴取者に甘えている」「楽器の能力を最大限に引き出す」「楽器に語らせる」……。
私にはどうにも理解できないというか、それが「良い」と思えないのです。

本日の通勤では「シェエラザード」を聴いていました。
この曲は、同じメロディが形を変えて何度も繰り返されます。
楽曲のモチーフも、王妃が命を繋ぐために「物語を語り続ける」お話です。
千夜一夜物語を紡ぐヴァイオリンの主題が、形を変えて何度も現れる。
その「繰り返し」が、聴き手に安心感と物語への没入感を与えてくれます。

人は変化を嫌う生き物だ、という側面があると思います。
毎日同じことが繰り返されることに、安心感を得る。
でも、時々は飽きて退屈してしまうので、旅行に行ったり、いつもと違うことをしたりしますね。
それは、いわば「良い変化」です。

一方で、例えば企業が合併し、新しい文化との融合が始まるような変化もあります。
共通基盤が異なる人々が、新しい基盤を共に作っていく。
私はどちらかと言えばそうした変化を楽しいと感じる方ですが、それを好まない人もいます。

私たちの明日は誰にもわかりません。
だからこそ、今日と同じ明日が来ると思えることが安心につながります。
武士の教科書と言われる「葉隠」には、「今日が人生最後の日だと思い生きよ」という言葉があります。
後悔のないよう、あらゆることに一生懸命取り組もう、ということでしょう。
「本当に明日は来ないかもしれない」という環境に身を置くことは、安心とは真逆の状態です。

しかし、どうしてもそういう瞬間に直面することがあります。
大病を患えば、当たり前に繰り返されると思っていた毎日が、そうでなくなります。
ビジネスでも日々の生活でも、危機は予期せぬところからやってきます。

戸惑い、考え、立ち止まる。
そして、また進む。

その変化こそが、人それぞれのドラマであり、物語なのだと思います。
私たちは他人のドラマには共感し、感動しますが、「もし自分だったら……」と考えると、やはり足がすくんでしまいます。
もちろん、素敵な結末は歓迎ですが。

安定した毎日がいい。
けれど、もし綱渡りをしなければならないのなら、下が見える高さよりも、いっそ何も見えないほど高い方が、迷いなく進めるのかもしれません。

2026年4月17日 (金)

いつか自らの思いを遂げる日のために -求められるイメージの檻の中で、心を殺さずに生きる方法-

Akatsuki231

中学生の頃、私が好きだった海外のロックバンドの多くが、メンバーの離合集散を繰り返す。
それが日常茶飯事でした。
お気に入りのバンドの新作をずっと聴き続けたい一心だった当時の私は、脱退していくメンバーに対し、「なんで辞めてしまうんだ」と不満を抱いていたものです。

「音楽の方向性が違うから」
「プロデューサーの商業主義的なやり方が嫌だ」

そんな理由に対し、「それくらい我慢しろよ。多くのファンが新作を期待しているんだぞ。そもそも売れなきゃダメじゃないか」…なんてことを思っていました。

しかし、大人になるにつれ、人は「自分の心を殺すこと」の苦しさを身をもって覚えていきます。
その時になって初めて、かつてバンドを脱退したメンバーたちの気持ちが痛いほど理解できたのです。

自分の本意ではないところで、自らの意思を表現しなければならない辛さ。
明確になってしまったズレの中で活動を続けることは、単なる「我慢」ではなく、文字通り「自分の心を殺すこと」に他なりません。

シンディ・ローパーのベストアルバム(Greatest Album)の1曲目には、「I'm Gonna Be Strong」という楽曲が収録されています。
「強くならなきゃ」という意味のタイトルです。
このアルバムの解説を読むと、彼女が活動の中でいかに様々な葛藤を抱えていたかが記されています。
世界的に大ヒットした「Girls Just Want To Have Fun(ハイスクールはダンステリア)」は、本来はもっとレゲエ調の曲だったそうですが、「これではヒットしない」とアレンジを大幅に変更させられたといいます。
そこに潜む複雑な思い。
そして、不本意な形で曲が大ヒットしたことにより、世間からのイメージが固定され、その後のキャリアまで決められてしまう苦悩。

自らの意思と異なっていても、求められるイメージに人は近づいていかざるを得ません。
これは、生きる上での大きな苦しみを生み出す要因になります。

「それは自分のキャラじゃないから」
現代でも、そんな言葉をよく耳にします。
たとえば学校のクラスの中で求められる姿。
それはその人のポジションであり、居場所を守るための防壁でもあります。
しかし、その役割に縛られてしまうと、今度は「キャラ変」が難しくなります。
新しいキャラクターを見せたとき、その場所で受け入れられるだろうかと恐れてしまうのです。

自分の思いで、自らのありのままの姿を決められないことは、本当に苦しいものです。
私たちは誰しも、社会の一員としての役割を求められる場面が多いです。
ですが、あまりに若いうちからそのことばかりを意識してしまうと、「本当の自分を受け入れてもらえる」という安心感を喪失することになります。
極端に言えば、いつも誰かの期待に応えるために作り上げた「キャラクターとしての自分」しか表に出せなくなってしまうのです。

かといって、本当の自分のまま傍若無人に生きることも、現実にはなかなかできません。
生きていく中で、私たちは本当の自分との「折り合い」をつける術を身につけていきます。
でも、そのちょうどいい塩梅、頃合いを定めるのは本当に難しいですね。

件のシンディ・ローパーのアルバムの最後には、「Girls Just Want To Have Fun」の、本来のバージョンと思われるトラックが収録されています。
「やるね」と思わずニヤリとしてしまいました。

いつか自らの思いを遂げる日のことを、彼女はずっと心に秘めていたのですね。

2026年3月24日 (火)

未来からのメッセージを、今を生きる誰かの力に変えていけたら。

Akatsuki226

「コップに溜まっていく努力」は、本人にはその溜まり具合がよく見えないものだと言われます。

あともう少しで溢れ出し、報われる瞬間が来るとしても、渦中にいる人間にはそれがいつ終わるともしれない果てしない道に見えてしまう。
それを継続するには、並大抵ではない気力や根性が必要です。

小説やドラマでは、そんな状況を理解している「未来の自分」や「大切な人」が時空を超えて応援に来る、という物語があります。
「もう少しで報われるから」「もうすぐ幸せになれるから」と励まされるストーリーです。

プリンセス プリンセスの楽曲「ONE」にも、そんな情景が描かれています。
かつて恋に迷い、孤独に震えていた過去の自分に向けて、未来の自分がこう語りかけます。

恋を失くしてさむさに泣いていた
一人きりのあの頃の私に伝えたい
「ねえ、泣かないで大丈夫。
あなたの最後の恋に今ここでやっとめぐり逢えた」と

プリンセス プリンセス / ONE

この曲を初めて聴いた時、私は心を強く揺さぶられました。
楽曲のハイライトで音が止まり、そこから弦楽器の調べが引き継がれる展開は、これまでの哀しみが昇華され、運命の出会いへと導かれる予兆のように感じられます。
そして、前述の温かな歌詞へと繋がっていくのです。

「未来がわからないからこそ、人は希望を失わずにいられる」という言葉があります。
確かにその通りかもしれません。
しかし、今を生きるのが辛く苦しい時、「あともう少しだ」と確信できれば、最後の一歩を踏み出す勇気が湧いてくるのも事実です。
「これが最後の踏ん張りどころだ」とゴールが見えれば、残った力を振り絞る気力が生まれます。

一方で、もし未来がすべてわかってしまったら……。
成功ではなく失敗することが見えてしまう場面もあるでしょう。
現実にはその方が多いかもしれず、かえって気力を削がれてしまう可能性もあります。

そんな「未来からのメッセージ」を鮮烈に描いたものとして、MUSEの楽曲「Follow Me」と鉄拳さんのパラパラ漫画がコラボレーションした動画も忘れられません。
繰り返される誤解や哀しみに自暴自棄になる男女。
その出会いもまた、未来からのメッセージでした。
鉄拳さんの作品はどれも胸を打ちますが、このMUSEの楽曲との組み合わせは格別です。

私自身は、自分のために「未来からのメッセージを受け取りたい」と思ったことはありません。
けれど、大切な人が幼い頃に寂しい思いをしていた話や、いじめ、孤独に耐えていた話を聞くと、どうしても思ってしまうのです。
当時のその人のもとへ駆けつけ、未来から精一杯の応援を届けてあげたい、と。

かつて哲学の講義で、「起きてしまった出来事の意味を、後から見出すこと」を宗教的な理解の方法であると学んだことがあります。
それは、過酷な過去であっても「今の自分に繋がるための大切なプロセスだった」と受け入れ、次へ進むための糧とする心の作法です。

私が過去のその人に「大丈夫だよ」と声をかけたいと願うのは、その孤独だった時間にも、いつか必ず温かな「意味」が宿る日が来ると、心から信じているからなのかもしれません。

ろくでもない、この世界に。

それでも、こんな世の中でも必ず報われる日が来ると、私は信じ続けたいのです。

2026年3月23日 (月)

不完全だからこそ。

Akatsuki226

誰にでも、自身の正直な思いや行動がある一方で、社会の中で役割を演じるというか、担う部分がありますね。
父親であったり、母親であったり、社長であったり、部長であったり、先輩であったり…ときりがないです。
立場が人を変えるという事も、真実ですね。
その立場にふさわしい言動や行動はと考えます。
そうでなければ、ならない…というところでしょうか。
横綱は、横綱の言動や行動を含む品格を、横綱になったその時から求められます。
横綱は単なる名称で、なった本人の身体の組成がかわるわけではありません。
身体の組成が変わるわけではないのに、行動や言動そしてその心には「品格」という名の見えない鎧が着せられて行きます。

どちからの側面が大きくなるかは、様々な場面で違うと思います。
先日、回転すしでの店内で、その地区出身の議員が家族で会食している姿を垣間見ました。
その朗らかな顔は、あまり見た事がない気がしました。
議員ではなく、お父さんの顔でした。

ヴァン・ヘイレン(Van Halen)のアルバム「Van Halen Ⅲ」は、ディスコグラフィの中でも異色だと思います。
それまでの作品を聴いて、初めてこのアルバムを聴いた時、同じ路線と認識していたので違和感がありました。
初めて聴いた時は、少しガッカリでした。
当時の私は、彼らに「常に勝者であること(快活なロックヒーローであること)」という期待と役割を押し付けていたのかもしれません

様々な可能性を拡大させて行くなら、様々なアプローチがあっていいです。
路線が同じは違和感は感じませんが、飽きる事もあります。
新しい領域の中に、その可能性を拡大させる事は、今なら理解が出来ますが、当時はそこまで考えられませんでした。

セールスは芳しくなく、やっぱりな…というのが当時の所感でした。

先日、久しぶりにアルバム「Van Halen Ⅲ」を聴きました。
ゲイリー・シェローン(Gary Cherone)の少ししゃがれた声がとてもいい。
その内容は内省的で、楽曲と声がピッタリ。
若かりし頃、これまでの延長線を期待していて、その魅力には気付かなかった。
というより、気づけなかったのでしょう。

EAGLESのアルバム「Long Road out of Eden」を最近聴きなおして、その魅力を新たに感じた事と同じでしょうか。
アルバム中の楽曲、

09:Year to the Day
11:Ballot or the Bullet
12:How Many Say I

どれもシビレル。

等身大の自分をさらけ出す、その人間的な部分に、ある日の自分が重なり合う事があります。
誰でもが、様々な思いの中で抱く感情です。
生きるという経験を重ねる事で、変わって行く人の気持ちと変わらぬ気持ち。
齢を重ねると、見える景色も、感じる事も変わってきます。

人は弱さを抱えながらも、目覚め、進歩し続けることができる。
その進歩とは、かつて見落としていた「不完全な美しさ」に気づけるようになること、なのかもしれません。

2026年2月17日 (火)

忘却という名の慈悲。

Akatsuki226

幼い子供で、その前の人生を語る子供もテレビ番組で観た事があります。
俗にいう、前世はこうでしたという語りです。
複数回観ましたが、その視点は別々で、単純に覚えているという事から、そのことが苦しみになるという事の様々なとらえ方でした。

輪廻転生が間違いない事であれば、繰り返す生は修行です。
魂を繰り返す生の中で高めなさいという、普通では想像が出来ない高次からのメッセージなのだと思います。

私には前世の記憶はあった覚えがありません。
今を生きる自分が、過去の恥ずかしい行いや発言、その失敗が忘れられず、ふとした疑問にその思いがよみがえる事があります。
また、悔しい思いがよみがえる事もあります。

過去の奴隷にはなっていませんが、まだ呼び覚まされるその記憶に辟易とする事は、ないわけではありません。

そんな自分が、前世の記憶があれば、やっぱり未熟な行いを忘れる事はなく、苛まされる事もあると思います。
今を生きていても、繰り返すのに、そこの前世の失敗も加えられると、それは辛いです。
また、前の時と同じ事をしている。
恥の上塗りが二倍です。
ちょっと絶望的な気分になります。

今を生きる世界で、前世での行いがカルマとして影響をしている。
なんだか、逃げ場ない気がします。

別の角度から、だからこそ、今を生きることを大切にする。
そうとらえる事ができるなら、まだ救いがある気がします。

肉体はただ、今を生きる魂の器に過ぎない。
これでは、自分を大切にできないです。

Akatsuki227

今日の帰り道、ラヴェルの弦楽四重奏曲第2楽章を聴いていました。
冒頭のピッチカートの不思議な始まりに、そんな思いがよぎりました。
前世と今をつなぎ、空間を超える、そんな感覚を感じるのです。

Akatsuki228

私は今を一生懸命に生きるので、精一杯です。
だからこそ、この器に注がれる今の感情や、聴こえてくる音楽を、私は丁寧に受け止めたいです。

2025年10月24日 (金)

絶望から立ち上がる「希望」こそが力。マーラーの真骨頂。

Akatsuki225

バブル景気が華やかりしころ、マーラーがブームになった事があったと思います。
ウィスキーのCMで、マーラーの「大地の歌」、「青春について」だったかな。
(調べると、きっと発見できると思うのですが、そこに記載されている文書に引きずられるので止めておきます)
鳥獣戯画の絵を利用していた様な。

ベートーヴェンの「運命」の様に、闘争から勝利へも、とても勇気づけられます。
でも、マーラーはなぜか、寄り添うように聞こえるのです。

バブル景気の陰りが見えて、享楽的な夢から覚めるのと同時に、祭りの後のさびしさがやって来る。
自分とは何か、なぜ生きるのか、孤独とはなど、エネルギーが自分の内向きになる時。
レベルは違えど、同じ要素に悩まされた人が、マーラーの生涯に共感する部分が増加するのでしょう。

そんな思いの時に、マーラーは等身大に映るのかもしれません。
偉大な芸術家を等身大というのは強烈ですが、恐れずに書きます。
作品が認められなかったり、孤独だったり、死への恐怖があったり。
生きている間は辛い事が多くあった。

偉大な芸術家でも、そんな事があるのだ。
同じ思いに苛まされている。

マーラーは生前、作品が完全に認められなかったり、指揮者としての激務の中で孤独に苛まれたり、そして何よりも「死への恐怖」を常に抱えて苛まされていたと数々の書籍で読みました。
マーラーの交響曲は、生きる事の苦しみや哀しみ、その表現に多く膨大な時間が割かれていると思います。

マーラーの音楽を聴くとき、こう感じるのかもしれません。

偉大な芸術家でも、こんなに孤独で、死を恐れ、苦しみに苛まれていたのだ。
苦しんでいるのは、自分一人だけではない。

自分だけじゃない、誰もが同じという共感の念こそが、大きな慰めとなります。
偉大な芸術家が抱えた生身の体温と、自分の体温が重なり合うその瞬間。
人は孤独から解放され、改めて「自分も頑張ろう」という静かな勇気が湧いてくると思うのです。

マーラーの哀しみや、孤独、苦しみ、死への恐怖などが、その楽曲を通じて、寄り添っているように感じる。
そこに、人としての、同じ体温を感じるのではないでしょうか。

死や苦悩の描写の後に、壮大な合唱や歓喜の響きによる「希望」や「救済」のクライマックスが用意されています。
不安な時代だからこそ、その不安や絶望を乗り越えた先にある強烈な「希望」を求める気持ちが強くなる。
マーラーの音楽は、そのドラマティックな起伏を通じて、不安定な時代を生き抜くためのエネルギーとなります。

若い頃、マーラーを聴く機会は少なかったです。
少し大人になって同じに聴いても、感じ方が変わりました。

バブル景気が弾けて祭りの終わりを感じる時、社会全体に漠然とした不安や閉塞感が覆います。
物質的な豊かさの後に、精神的な充足や自己の存在意義を深く問う風潮が生まれました。
自分探し…なんて言葉が聞かれるようになったと同じ時期です。

複雑で内省的な響き、そして長大さゆえの「人生」や「宇宙」といった巨大なテーマ性は、この時代の不安や孤独を感じる人々の心境と重なり、共感を得ました。
孤独や不安、人が生きる哀しみにのたうちまわるのに、その後に、壮大な合唱や歓喜の響きによる希望や救済のクライマックスが用意されています。
だからいい。
私はそんな思いがあります。

今の季節、交響曲第3番第6楽章「愛が私に語ること。」ピッタリです。

2025年10月20日 (月)

パット・メセニー「シークレット・ストーリー」に聴く、人類普遍の「喪失と再生」の事。

Akatsuki224

■表現せずにはいられない、人類のDNA
私たち人間は、感情が溢れたとき、それを「形」にせずにはいられない生き物です。
それは、文字や絵を描く能力を獲得した、人類の最も根源的な特徴かもしれません。

遥か昔、洞窟の中に絵を描き始めた太古の祖先から、激しい感情を石やキャンバス、あるいはメロディに刻みつける本能は、私たち現代人のDNAに深く刻み込まれているのでしょう。

芸術家たちは、絵、文章、音楽、彫刻といった様々な手法を用い、自らの内なる宇宙を表現します。
そして、私たち一般人もまた、深い感情に触れたとき、ふとした瞬間にメモを取ったり、ブログに書き綴ったりして、その感情に輪郭を与えようとします。

■「シークレット・ストーリー」に聴く普遍の哀しみ
私の愛聴盤、パット・メセニー(Pat Metheny)のアルバム「シークレット・ストーリー(Secret Story)」を久しぶりに聴きました。

この作品は、パット・メセニー自身の大きな哀しみ、すなわち「喪失」という個人的な感情が、壮大な音楽によって「昇華」されてゆくまでのストーリーです。
歌詞がないにもかかわらず、そのメロディとオーケストレーションは、聴く人それぞれの人生にある哀しみや孤独を呼び起こし、私たちはそこに自らの感情を投影してしまいます。

それは、パット・メセニーの音楽が、一人のジャズギタリストの経験を超え、人類普遍の「喪失と再生」の思いに触れているからに他なりません。

■哀しみの旅路の終焉、そして結実
アルバムの終盤、哀しみがピークを迎えた後、ロンドン管弦楽団が演奏する14曲目の「Not to Be Forgotten (Our Final Hour) / 忘れ去られることなきように(我々の最後の時)」が響きます。

この曲は、激しい感情の旅路を終え、全てを静かに受け入れることを聴き手に促します。
哀しみが美しさへと変容し、魂が静かに安堵する、昇華の瞬間です。

そして、全曲を通して聴き終えた後、私は必ず坂本龍一さんの楽曲「Aqua」を聴きます。
アルバムと楽曲1曲のプレイリストです。

「シークレット・ストーリー」という映画、あるいは交響詩のような一つの物語が結実し、全てが澄み切った水のように安らかになる。
そんな深い安堵感と静かな調和を感じるのです。

私たちが芸術に求めるのは、単なる美しさではなく、「この哀しみから、どうすれば立ち直れるのか」という問いへの答えなのかもしれません。
そして偉大な作品たちは、いつも静かに「大丈夫だ」と語りかけてくれるのです。

今日の通勤はメタリカ (Metallica)のMetallica(通称ブラック・アルバム)です。
1週間のスタートはテンションアゲアゲで。

2025年9月12日 (金)

ジャケットに導かれた、親としての問い。

Akatsuki222

ジャケットの装丁に惹かれて、レコードを買った事が何度かあった。
その内のひとつが、小椋佳さんの「かなうならば夢のままで」というアルバム。
小椋佳さんは聴いた事がありましたが、レコードは買った事がなかった。
確か、アルバムタイトルは映画の主題歌だった気がする。
実家のレコード棚には残っていると思う。
青を基調にした背景にキキョウか、ランの、なまめかしい花が描かれていたと記憶している。
学生時代で、自由になるお金も少ないので、おそらく中古レコードを買ったと思う。

リチャードクレイダーマンのアルバム「秋のささやき」も素敵なジャケット。
落ち葉がとても美しい。
ジャケットの表も裏も、一面の落ち葉となっている。
様々落ち葉の色彩が、なんとも美しい。
美しい落ち葉の写真中央に、ピアノを弾くリチャードクレイダーマンが正方形で小さく。
楽曲も、とても好きだった。

小椋佳さんで記憶にあるのは、子育ての事。
この事をいつ聞いたのか、どこでなのかも記憶がない。
でも、印象に残り覚えていた。

彼の銀行員としての一面と、親としての葛藤の話が、なぜか強く心に残っている
それは、こんな事だった。
小椋佳さんは銀行員で、社内でも管理職として部下を持つ立場。
部下の指導に際しては、原因と結果を検証し、成長を促してきたのだと思う。

ところが、これを自分の子供にも幼い頃から同じ手法をとった。
子供は大変な事になり、小椋佳さんが子供の教育を考え直すきっかけになった。
子供と部下は違うと気がついた。

多分、こんな話だったと思う。

自身の思春期。
特に親父に対しては、自分はあなとは違う人間だと思う事が多くあった。
小言は言われない方だったと思うが、考えを押し付けられると感じる事が、何より苦痛だった。
特別に医者になれとか、先生になれとか、将来の事を決めつけられた事はない。

しかし、この苦痛は耐えがたいものだった。
きっと小椋佳さんの子供の気持ちが、理解できる気がしたのだ。

自分に子供が出来てどうだったか。
少なからず、同じ思いをさせて事はあっただろう。

私はとにかく一緒に遊ぶ事にした。
休日も全力で、一緒になって遊んだ。

将来の事を決めつける事はなかった…と思う。
今、私の子供はどう思っているだろうか。

2025年6月26日 (木)

さだまさしさんの名曲「親父のいちばん長い日」は最初中途半端に長かった。

Akatsuki220

さだまさしさんの名曲「親父のいちばん長い日」。
この曲には、私自身の特別な思い出があります。

私がまだ小さかった頃、おふくろがテレビ番組からこの曲を録音してくれました。
当時はそれが全曲だと思っていて、擦り切れるほど聴き込んだものです。
特に、アコースティックギターの弾き語りから始まり、徐々に音の厚みを増していく構成が大好きでした。

さだまさしさんといえば、この曲が発売された当時から既に人気歌手でしたよね。
私のおふくろも勿論、さだまさしさんの大ファンで、一回り年の違ういとこが熱心に聴いていた影響も大きかったようです。
そのいとこも、私が幼い頃からよくさだまさしさんの曲を聴かせてくれたので、私も自然と彼の音楽に親しんでいきました。

さだまさしさんが主演された映画「飛べ!イカロスの翼」の主題歌だった「道化師のソネット」も、本当に心に残る名曲です。
今でもCMなどで使われていることがあるかもしれませんね。

そして、「親父のいちばん長い日」は、当時としては珍しい12cmの45回転シングルレコードとして発売されたことでも話題になりました。
通常のシングル盤より大きく、LPのような存在感がありながら、45回転で鮮明な音質が楽しめるという、まさに斬新な試みでした。
ジャケットには、確か指揮者の山本直純さんが写っていらっしゃいましたね。
その豪華な共演も、この曲が持つスケールの大きさを物語っていたように思います。

先日、車で移動中にふとこの曲を耳にしたんです。
その瞬間、かつておふくろが録音してくれた4コーラスまでの記憶が蘇りました。

しかし、ある時、初めてこの曲の全6コーラスを聴く機会があったんです。
その時、私は初めて知りました。
私が聴き続けていたのは、4コーラスまでだったということを。
カセットテープは時間切れだったのです。

そして、その瞬間の衝撃と感動は忘れられません。
4コーラス目が終わり、訪れる間奏。
その間奏が、まるでクライマックスへと誘うかのように、聴く者の心を高ぶらせるんです。
そして、迎える5コーラス目からの展開!
ギターの弾き語りから始まった楽曲が、壮大なオーケストラへと姿を変え、クライマックスをこれ以上ないほどに盛り上げていく。

それはまるで、楽曲の主人公が人生の困難を乗り越え、成長していく姿と重なるようでした。
4コーラスまでの物語も素晴らしいけれど、その先の展開で、曲全体の深みやメッセージ性が何倍にも増幅されるのを感じました。

■「親父」になって聴く、新たな感動

学生時代にこの曲を聴いていた頃は、もちろん感動はありました。
しかし、自分が親となり、子供を持つ立場になって改めて聴くと、その所感は全く違うものになります。

かつては主人公の成長に心を重ねていたけれど、今は歌詞に出てくる「親父」の気持ちが、より深く、より切実に胸に響くのです。
子供への愛情、心配、そして見守る眼差し。
学生時代には気づかなかった、親としての葛藤や喜び、日々の積み重ねが、この曲の隅々にまで散りばめられているように感じられます。

特に、クライマックスのオーケストラが盛り上がるところでは、親としての人生の重みや、子供への尽きることのない願いが、まるで音になって押し寄せてくるようです。
まさに、時代を超えて、聴く人の人生のフェーズによって感じ方が変わる、稀代の名曲だと改めて確信しました。

もし、まだ4コーラスまでしか聴いたことがない方がいらっしゃったら、ぜひ一度、全編を通して聴いてみてください(そんな人いないですね)。
それが、この楽曲への思いを更に強くしたと思います。
そして、もしあなたが親の立場であれば、きっと私と同じように、新たな感動が待っているはずです。

2025年6月 9日 (月)

人間ドラマと音楽の融合!ベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番と映画「25年目の弦楽四重奏」、そして200年前の「ヘヴィメタル」

Akatsuki220

音楽は人間が作るものであり、それはまさに人間ドラマ。
そんな事を思う映画があります。
映画「25年目の弦楽四重奏」はとても印象に残っている映画です。

この映画は、長年活動を共にしてきた世界的に有名な弦楽四重奏団「フーガ」に、チェリストのピーター(クリストファー・ウォーケン)がパーキンソン病を患い引退を宣言するという衝撃的な出来事が起きることから物語が展開します。
この出来事をきっかけに、これまで完璧なハーモニーを奏でてきた彼らの人間関係に軋轢が生じ、隠されていたそれぞれの葛藤やエゴが露わになっていきます。

そして、彼らがこの記念すべき年に演奏曲として選んだのが、まさにベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番 作品131なのです。
この曲は、7つの楽章が休みなく演奏されるという特徴を持っています。
映画の中では、この曲の「途切れることなく続いていく」という性質が、四重奏団のメンバーの関係性や人生そのもののメタファーとして非常に効果的に使われています。

■なぜこの曲が映画のモチーフになったのか。

映画のテーマである「25年という長い年月を共に過ごし、様々な困難に直面しながらも、途切れることなく演奏を続けてきた四重奏団の絆と変化」と深く結びつけていると思います。
ピーターが病気により引退を余儀なくされることで、その「途切れない」という関係性に変化が訪れ、メンバーそれぞれが新たな「間」や「不協和音」に直面する様が描かれています。
絶対的な、カリスマ的なリーダーがいなくなると、様々な組織で少なからず発生する問題です。

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番は深遠な内容と感情の揺れ動き、後期作品の中でも特に内省的で深遠、そして激しい感情の起伏が伴うと感じています。
それはまさに、映画の登場人物たちの複雑な心情や人間関係の葛藤と見事に呼応させています。
音楽に映画が呼応している…と言うべきでしょうか。
クリストファー・ウォーケン、フィリップ・シーモア・ホフマン、キャサリン・キーナーといった実力派俳優たちが素晴らしい演技を見せており、音楽だけでなく、もう人間ドラマです。
この映画が、弦楽四重奏曲第14番が持つ多面的な魅力、そしてそれが人生や人間関係といかに深く結びつき得るかを改めて感じます。
作品の深淵と映画の人間のドラマがリンクすると思うのです。

■私には、このベートーヴェン弦楽四重奏曲第14番は「ヘヴィメタル」です。

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番は、その全体を通して激しさ、情熱、そして圧倒的なドラマ性に満ちています。
特に終楽章(第7楽章)は、その感覚はさらに強まります。
冒頭から休みなく続く力強いテーマ、目まぐるしく変化する複雑なパッセージ、そして一瞬たりとも気が抜けないような緊迫感は、ヘヴィメタルが持つ爆発的なエネルギーや、リスナーを惹き込むドラマティックな展開と同じです。

暗く重厚な響き、時に不協和音すれすれの激しい音のぶつかり合いは、ヘヴィメタルが持つダークでシリアスな雰囲気と重なる部分があります。
ベートーヴェンが19世紀初頭に生み出したこの音楽が、約200年後の現代において、全く異なるジャンルの音楽にまで繋がりを感じさせるというのは、彼の音楽がいかに普遍的で革新的であったかを示す証拠です。

特に第一ヴァイオリンと第二バイオリンが奏でる、まるで「ツイン・ギター」の様な衝撃。
この「ヘヴィメタル」感覚を特に強めます。
第一ヴァイオリンと第二ヴァイオリンの掛け合いです。

ヘヴィメタルにおけるツイン・ギターの役割。
二本のギターがユニゾンで強烈なリフを刻んだり、複雑なハーモニーを生み出したりすることで、楽曲に厚みと推進力を与えます。

ベートーヴェンの終楽章におけるヴァイオリンは、まさにこのツイン・ギターのような効果を発揮しています。
もちろん、ベートーヴェンの時代にヘヴィメタルは存在しませんが、彼の音楽が持つ革新性や力強さは、後の時代に生まれたヘヴィメタルというジャンルにさえ通じる…と私は感じています。

分厚い音圧と迫力。
時に両者が一体となって同じメロディやフレーズを演奏する場面は、単独のヴァイオリンでは出せないような圧倒的な音圧と迫力を生み出します。
まるでヘヴィメタルバンドが曲の核となるリフを分厚く演奏するかのようです。
そして、目まぐるしいパッセージや速いフレーズを交互に、あるいは同時に繰り出すことで、音楽全体に圧倒的な疾走感とアグレッシブさを与えます。
スラッシュメタルの速弾きや、テクニカルなリフの応酬を聴いているかのような感覚を覚えます。
ヴァイオリンが単なるメロディ楽器としてだけでなく、楽曲全体の推進力と構成を担う「エンジン」として機能している様は、ベートーヴェンの音楽の先見性を感じさせます。

もちろん、ベートーヴェンはヘヴィメタルというジャンルを知る由もありませんでした。
しかし、彼の音楽に宿る原始的な力強さ、感情の爆発、そして圧倒的な音楽体験は、ジャンルや時代を超えて、ヘヴィメタルが持つ精神性と深く通じ合っているのではないでしょうか。

ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第14番は、古典音楽の枠を超え、現代の音楽ファンにも新たな発見と興奮を与え続けるものです。
200年以上前の「ヘヴィメタル」です。

よく音楽番組で、クラッシックとヘヴィメタルの相関性は取り上げられます。
また、アーティストにも、その事を否定しない方は多くいます。

今日の通勤は勿論、この楽曲です。
演奏はAlban Berg Quartetです。

クラッシックなんて、弦楽四重奏曲なんて…と思っている方に是非。
映画を観てから、弦楽四重奏曲第14番を聴くのがお勧めです。
どうしてもという方には、第7楽章だけでも。
必ず大音量で、お聴きください。

あなたの音楽観が変わるかもしれません。

映画「25年目の弦楽四重奏」

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