心と体

2026年4月24日 (金)

記憶の底に隠した一冊 ―『呪いの館』と『ミルキーウェイ』―

Akatsuki231

小学生の頃、心霊写真やオカルトは大ブームでした。
友達が学校に持ってきた心霊写真の本を、みんなで囲んで見ては「怖いー」と騒ぐ。
そんな光景が日常でした。
けれど私は、心のどこかで「なんでこんな本を買うんだろう」「家に置いておきたくないな」とも思っていたのです。

夏休みになると、お昼の番組で放送されていた「あなたの知らない世界」も話題でした。
そんなオカルト全盛期に、クラスのほとんどが貸し借りして読んでいたのが、楳図かずお先生の『呪いの館』です。

これはオカルトなのですが、どこか人間臭く、すぐ隣にある日常の延長のような感覚がありました。
純粋な「あの世」の話ではなかったからかもしれません。
内容は確かに怖い。
設定もさることながら、何より「人間の所業」であることが恐ろしいのです。
当時は、その恐怖の正体が「人間の業」であるとは区別できず、醜い姿をした主人公に恐怖が集約されているのだと思っていました。

しかし、物語の終盤で主人公は自らの悪行を告白し、許しを請います。
自分の弱さを認め、ただ「誰かに大切にされ、愛されたかった」と吐露する。
単なるホラーで終わらない展開は、小学生の私には衝撃的でした。
自らの行為を悔い、最後に許しを乞うその姿は、それまでの勧善懲悪の物語では出会ったことのないものだったからです。

…もちろん、その本も家には置きませんでした。
当時の私は、そんな本を所有したいとは思いもしなかったのです。

さて、小学生の頃は「男女の区別」が時として大きな壁になります。
少女漫画を読んで「面白かった」なんて、口が裂けても言えないお年頃。
当時、絶大な人気を誇っていた『週刊少年ジャンプ』が私も大好きでした。

その一方で、幼い妹の横で一緒に観ていたテレビアニメ『キャンディ・キャンディ』にも、大河ドラマのような重厚さを感じ、密かに惹きつけられていました。

そんな環境で出会った、太刀掛秀子先生の『ミルキーウェイ』。これもまた衝撃でした。
平穏な環境で育った私にとって、『ミルキーウェイ』は『呪いの館』と設定こそ違えど、ヒロインが抱える「孤独」が切実に伝わってきたのです。
それはおそらく、これまでにない内面的な初体験でした。
しかし、やはり「少女漫画を読みました」とは絶対に言えず…。

結局、当時は買うことができず、大学生になってから古書店で見つけて手に入れました。
あの本は今、実家のどこかに隠れているかもしれません。

私の記憶と同じように。

2026年4月23日 (木)

8メートルの譲り合いと、心の余白。

Akatsuki231

通勤の経路に、2車線が途中で1車線へと合流する箇所があります。
右車線が左車線側に消えていく形です。

走行している人の多くは、その先で行き止まりになることを知っているため、手前から左車線を走っています。
でも中には、ギリギリまで右車線を加速して走り、先頭で割り込むように合流する車もあります。

道路が渋滞している際は、その方が効率が良い面もあります。
一番先頭で1台ずつ交互に合流する(ファスナー合流)ほうがスムーズだからです。

しかし、混雑していない時はどうでしょうか。
一定の速度で車間距離を保って走っている列を、猛スピードの右車線から抜き去り、強引に左側へ割り込む。そういう時、左側を走る車が意地でも車間を詰め、合流させまいとする光景も目にします。

その気持ちは理解できます。朝の通勤時なら、誰もがスムーズに目的地へ到着したい。
だからこそ、秩序をもって走行しているリズムを、自らの欲求のみで恣意的に壊す車には嫌悪感を抱いてしまう。
「合流」というより「割り込み」という表現がしっくりきてしまうのです。

そうなると、私も愉快な気持ちにはなりません。
しかし、ある時こんな風に考えてみました。

例えば4メートルの車両が、前後2メートルの車間を確保して走ると、占有する長さは全部で8メートル。
信号のタイミングなどにもよりますが、この「8メートル」を誰かに譲ったところで、目的地への到着時間はどれほど変わるでしょうか。
そう考えると、横入りのように入ってくる車に対しても、不愉快な気持ちが半減していくのを感じました。

旅行へ出かける時、私たちは様々な計画を立てます。
しかし、現地の状況や天候、混雑具合によって、予定が予定通りにいかなくなることは多々あります。
そこで私はいつも、最大の目的だけを設定したら、あとは臨機応変に構えるようにしています。

以前、奈良を旅行した時のことです。
市内循環バスに乗ったのですが、それには右回りと左回りがありました。
目的地には右回りが近く、左回りだとほぼ一周して最後の方に到着するルートです。
正解は右回り。
しかし、私が飛び乗ったバスは左回りでした。

しばらくそのことに気づかず、座席に座って一休み。
結果として、歩き疲れた体が元気になり、かえって良かったです。
目的地に到着した時、さっきバスに乗った駅が遠くに見えました。
「遠回りしたけれど、一休みできてよかったね」と思えたのです。

求めた結果と実際の結果が異なることは多々ありますが、そんな些細なことでも、決して悪いことばかりではないと思うのです。旅の記憶も、案外こうしたハプニングの方を鮮明に覚えているものです。

ビジネスも同じです。
相手があることなので、予測し、万全の準備をしますが、想定外の事態は必ず起こります。
その時にこそ、実は真価が問われる気がします。
狼狽したり、必要以上に感情的になったりすれば、そこで相手に自分の器量を推し量られてしまいます。
逆に、危機的状況を上手に切り抜け、冷静に対処できる姿を見せれば、かえって相手の信用が増すことも多いのです。

この世には、自分の力ではコントロールできないことばかりですね。

そんな中で、「こればかりはダメだ」と痛感したのがゴルフです。
あちらは、予想外の連続ですから。

2026年4月21日 (火)

3番と13番 ― フォークリフト講習の記憶。

Akatsuki231

50代も半ばに差し掛かる頃、フォークリフトの免許を取得するためスクールに通いました。
3月だったこともあり、4月から就職を控えた初々しい若者たちの姿が多く見られました。

初日の学科終了後には「効果測定」があるとのこと。
一定の点数を確保しないと落第です。
久々の「試験」という響きに、当日は緊張でテンパりながらも受講しました。

受講中は一言一句聞き逃さないよう、集中、集中。
なにせこちらは、本当に久しぶりの試験なのです。
結果、効果測定は予測していたよりはるかに簡単で、拍子抜けするほどでした。
しかし、本当の落とし穴はこの先にありました。

翌日からは、いよいよ実車での講習です。期間は4日間だったでしょうか。

フォークリフトは、後輪で進路を決めます。
ふと思い出したのは、学生の頃に流行ったホンダの「プレリュード」です。4WS(四輪操舵)という機能があり、後輪が最大4度曲がる仕組みでした。
友人の車を運転させてもらった際、最初は違和感もありましたが「狭い場所では便利だな」と感じたものです。

当時の私の愛車はスカイラインのR31で、こちらには「HICAS」という、後輪が1度だけ曲がる機能がついていました。
高速道路での車線変更などはスムーズに感じた一方で、インターチェンジのカーブなどでは、少し独特の違和感を覚えた記憶があります。

しかし、フォークリフトはそれどころではありません。
この「後輪で進路を決める」感覚に慣れるまで、少し時間が必要でした。
10代や20代の受講生たちは、なんなくこなしていきます。
競う必要などないのに、つい焦りを感じてしまいます。

そんなメンバーの中に、私と同年代の「ご同輩」がいました。
年齢は同じか、少し若いくらいでしょうか。

彼は教官によく注意されており、とにかく目立ちます。
そして、その次に目立っていたのが私でした。

講習中は苗字ではなく、番号で呼ばれます。
その彼は「13番」。
講習の合間に、講師が13番に問いかけました。
「免許を取ったら、どこへ行くんだ?」
「物流の会社に勤めたいと思っています」
「それなら、これは絶対必要だな」

再挑戦であることが窺える13番に対し、応援する気持ちがこもった教官の檄が飛びます。
そんな背景を聞いてしまったからか、教官の声の掛け方も、のほほんとしている3番(自分)に対するものとは明らかに違いました。
本当は、私のほうも「実技だけは落第できない」と焦りまくっていたのですが……。

その日の講習終わり、13番は教官から「頑張れな」と声をかけられていました。
うつむき加減に「はい」と答える13番。

しかし、翌日以降、彼の姿を見ることはありませんでした。

私はといえば、めでたく最終試験も失敗なく、追加講習を受けることもなく免許を取得できました。
しかし現在、現場では「フォークリフトに乗らなくていいです」と皆から言われています。
取得後に意気揚々と作業した際、商品をいくつも壊してしまったからです。

13番、どこかの空の下で元気にやっていますか?
3番は相変わらず成長せず、失敗ばかりの毎日です。

2026年4月17日 (金)

いつか自らの思いを遂げる日のために -求められるイメージの檻の中で、心を殺さずに生きる方法-

Akatsuki231

中学生の頃、私が好きだった海外のロックバンドの多くが、メンバーの離合集散を繰り返す。
それが日常茶飯事でした。
お気に入りのバンドの新作をずっと聴き続けたい一心だった当時の私は、脱退していくメンバーに対し、「なんで辞めてしまうんだ」と不満を抱いていたものです。

「音楽の方向性が違うから」
「プロデューサーの商業主義的なやり方が嫌だ」

そんな理由に対し、「それくらい我慢しろよ。多くのファンが新作を期待しているんだぞ。そもそも売れなきゃダメじゃないか」…なんてことを思っていました。

しかし、大人になるにつれ、人は「自分の心を殺すこと」の苦しさを身をもって覚えていきます。
その時になって初めて、かつてバンドを脱退したメンバーたちの気持ちが痛いほど理解できたのです。

自分の本意ではないところで、自らの意思を表現しなければならない辛さ。
明確になってしまったズレの中で活動を続けることは、単なる「我慢」ではなく、文字通り「自分の心を殺すこと」に他なりません。

シンディ・ローパーのベストアルバム(Greatest Album)の1曲目には、「I'm Gonna Be Strong」という楽曲が収録されています。
「強くならなきゃ」という意味のタイトルです。
このアルバムの解説を読むと、彼女が活動の中でいかに様々な葛藤を抱えていたかが記されています。
世界的に大ヒットした「Girls Just Want To Have Fun(ハイスクールはダンステリア)」は、本来はもっとレゲエ調の曲だったそうですが、「これではヒットしない」とアレンジを大幅に変更させられたといいます。
そこに潜む複雑な思い。
そして、不本意な形で曲が大ヒットしたことにより、世間からのイメージが固定され、その後のキャリアまで決められてしまう苦悩。

自らの意思と異なっていても、求められるイメージに人は近づいていかざるを得ません。
これは、生きる上での大きな苦しみを生み出す要因になります。

「それは自分のキャラじゃないから」
現代でも、そんな言葉をよく耳にします。
たとえば学校のクラスの中で求められる姿。
それはその人のポジションであり、居場所を守るための防壁でもあります。
しかし、その役割に縛られてしまうと、今度は「キャラ変」が難しくなります。
新しいキャラクターを見せたとき、その場所で受け入れられるだろうかと恐れてしまうのです。

自分の思いで、自らのありのままの姿を決められないことは、本当に苦しいものです。
私たちは誰しも、社会の一員としての役割を求められる場面が多いです。
ですが、あまりに若いうちからそのことばかりを意識してしまうと、「本当の自分を受け入れてもらえる」という安心感を喪失することになります。
極端に言えば、いつも誰かの期待に応えるために作り上げた「キャラクターとしての自分」しか表に出せなくなってしまうのです。

かといって、本当の自分のまま傍若無人に生きることも、現実にはなかなかできません。
生きていく中で、私たちは本当の自分との「折り合い」をつける術を身につけていきます。
でも、そのちょうどいい塩梅、頃合いを定めるのは本当に難しいですね。

件のシンディ・ローパーのアルバムの最後には、「Girls Just Want To Have Fun」の、本来のバージョンと思われるトラックが収録されています。
「やるね」と思わずニヤリとしてしまいました。

いつか自らの思いを遂げる日のことを、彼女はずっと心に秘めていたのですね。

2026年3月24日 (火)

未来からのメッセージを、今を生きる誰かの力に変えていけたら。

Akatsuki226

「コップに溜まっていく努力」は、本人にはその溜まり具合がよく見えないものだと言われます。

あともう少しで溢れ出し、報われる瞬間が来るとしても、渦中にいる人間にはそれがいつ終わるともしれない果てしない道に見えてしまう。
それを継続するには、並大抵ではない気力や根性が必要です。

小説やドラマでは、そんな状況を理解している「未来の自分」や「大切な人」が時空を超えて応援に来る、という物語があります。
「もう少しで報われるから」「もうすぐ幸せになれるから」と励まされるストーリーです。

プリンセス プリンセスの楽曲「ONE」にも、そんな情景が描かれています。
かつて恋に迷い、孤独に震えていた過去の自分に向けて、未来の自分がこう語りかけます。

恋を失くしてさむさに泣いていた
一人きりのあの頃の私に伝えたい
「ねえ、泣かないで大丈夫。
あなたの最後の恋に今ここでやっとめぐり逢えた」と

プリンセス プリンセス / ONE

この曲を初めて聴いた時、私は心を強く揺さぶられました。
楽曲のハイライトで音が止まり、そこから弦楽器の調べが引き継がれる展開は、これまでの哀しみが昇華され、運命の出会いへと導かれる予兆のように感じられます。
そして、前述の温かな歌詞へと繋がっていくのです。

「未来がわからないからこそ、人は希望を失わずにいられる」という言葉があります。
確かにその通りかもしれません。
しかし、今を生きるのが辛く苦しい時、「あともう少しだ」と確信できれば、最後の一歩を踏み出す勇気が湧いてくるのも事実です。
「これが最後の踏ん張りどころだ」とゴールが見えれば、残った力を振り絞る気力が生まれます。

一方で、もし未来がすべてわかってしまったら……。
成功ではなく失敗することが見えてしまう場面もあるでしょう。
現実にはその方が多いかもしれず、かえって気力を削がれてしまう可能性もあります。

そんな「未来からのメッセージ」を鮮烈に描いたものとして、MUSEの楽曲「Follow Me」と鉄拳さんのパラパラ漫画がコラボレーションした動画も忘れられません。
繰り返される誤解や哀しみに自暴自棄になる男女。
その出会いもまた、未来からのメッセージでした。
鉄拳さんの作品はどれも胸を打ちますが、このMUSEの楽曲との組み合わせは格別です。

私自身は、自分のために「未来からのメッセージを受け取りたい」と思ったことはありません。
けれど、大切な人が幼い頃に寂しい思いをしていた話や、いじめ、孤独に耐えていた話を聞くと、どうしても思ってしまうのです。
当時のその人のもとへ駆けつけ、未来から精一杯の応援を届けてあげたい、と。

かつて哲学の講義で、「起きてしまった出来事の意味を、後から見出すこと」を宗教的な理解の方法であると学んだことがあります。
それは、過酷な過去であっても「今の自分に繋がるための大切なプロセスだった」と受け入れ、次へ進むための糧とする心の作法です。

私が過去のその人に「大丈夫だよ」と声をかけたいと願うのは、その孤独だった時間にも、いつか必ず温かな「意味」が宿る日が来ると、心から信じているからなのかもしれません。

ろくでもない、この世界に。

それでも、こんな世の中でも必ず報われる日が来ると、私は信じ続けたいのです。

2026年3月23日 (月)

不完全だからこそ。

Akatsuki226

誰にでも、自身の正直な思いや行動がある一方で、社会の中で役割を演じるというか、担う部分がありますね。
父親であったり、母親であったり、社長であったり、部長であったり、先輩であったり…ときりがないです。
立場が人を変えるという事も、真実ですね。
その立場にふさわしい言動や行動はと考えます。
そうでなければ、ならない…というところでしょうか。
横綱は、横綱の言動や行動を含む品格を、横綱になったその時から求められます。
横綱は単なる名称で、なった本人の身体の組成がかわるわけではありません。
身体の組成が変わるわけではないのに、行動や言動そしてその心には「品格」という名の見えない鎧が着せられて行きます。

どちからの側面が大きくなるかは、様々な場面で違うと思います。
先日、回転すしでの店内で、その地区出身の議員が家族で会食している姿を垣間見ました。
その朗らかな顔は、あまり見た事がない気がしました。
議員ではなく、お父さんの顔でした。

ヴァン・ヘイレン(Van Halen)のアルバム「Van Halen Ⅲ」は、ディスコグラフィの中でも異色だと思います。
それまでの作品を聴いて、初めてこのアルバムを聴いた時、同じ路線と認識していたので違和感がありました。
初めて聴いた時は、少しガッカリでした。
当時の私は、彼らに「常に勝者であること(快活なロックヒーローであること)」という期待と役割を押し付けていたのかもしれません

様々な可能性を拡大させて行くなら、様々なアプローチがあっていいです。
路線が同じは違和感は感じませんが、飽きる事もあります。
新しい領域の中に、その可能性を拡大させる事は、今なら理解が出来ますが、当時はそこまで考えられませんでした。

セールスは芳しくなく、やっぱりな…というのが当時の所感でした。

先日、久しぶりにアルバム「Van Halen Ⅲ」を聴きました。
ゲイリー・シェローン(Gary Cherone)の少ししゃがれた声がとてもいい。
その内容は内省的で、楽曲と声がピッタリ。
若かりし頃、これまでの延長線を期待していて、その魅力には気付かなかった。
というより、気づけなかったのでしょう。

EAGLESのアルバム「Long Road out of Eden」を最近聴きなおして、その魅力を新たに感じた事と同じでしょうか。
アルバム中の楽曲、

09:Year to the Day
11:Ballot or the Bullet
12:How Many Say I

どれもシビレル。

等身大の自分をさらけ出す、その人間的な部分に、ある日の自分が重なり合う事があります。
誰でもが、様々な思いの中で抱く感情です。
生きるという経験を重ねる事で、変わって行く人の気持ちと変わらぬ気持ち。
齢を重ねると、見える景色も、感じる事も変わってきます。

人は弱さを抱えながらも、目覚め、進歩し続けることができる。
その進歩とは、かつて見落としていた「不完全な美しさ」に気づけるようになること、なのかもしれません。

2026年3月16日 (月)

きっと、人は弱さを抱えながらも、目覚め、進歩し続けることができる。

Akatsuki229

EAGLEのLONG ROAD OUT OF EDEN。
発売時に取引先の社長さんから、いいから聴いてみろと言われて、CDを頂いた事がありました。
当時は退屈な限りでしたが、今はその素晴らしさを実感します。
ギラギラしていた頃は、大人の余裕は理解が出来ないのかもしれません。

芳醇な美味しいウィスキーの味は理解できない。
手っ取り早く酔っぱらう事を目的に、ひたすらビールをグビグビ一気飲み。
味わうのではなく、ただ酔うだけの薬(そんな薬があるなら…)に近い飲み方と同じ聴き方です。
感じたりする事や人生の経験に照らしてなんて、幼稚でしたので出来ません。

今、少しはそのアルバムを聴いて、退屈どころか、素晴らしいと思うのでちょっと進歩したのでしょうか。

ありがたい事に、小学生から付き合いの続く友人がいます。
お互いにあまり遠慮がありません。

互いに就職して、そんなに時間が経過していない頃の事です。
彼は私に「いつまでの、誰かの評価の中、誰かの評価の軸で、仕事するのは嫌だ」と言っていました。
それを聞いた当時の私は「だから、早く評価する側になればいい」と言いました。
「そういうんじゃないんだよ」と彼の返答でした。

その時の自分は、同僚とも競い合うような、職場にはそんな環境がありました。
また、そんなヒリヒリする様な環境が好きでした。
だから当時の私には、彼の言葉は言い訳に聞こえていました。

やがて、私はいろいろな事が上手く行かなくなります。
最初のスタートは早く、全力疾走が続いていたので、立ち止まれば、落下する速度は加速度付きでした。

次の就職先も決めずに辞めました。

彼はよく私の部屋に来ていました。
午後に来て、西日の差す部屋でお菓子を食べながら、漫画や雑誌を見ては帰りました。
私はその事を、特別に気にする事もありませんでした。

再就職の活動は始めていましたが、外出するより部屋にいる事は多く、彼はそれを知っていました。
後から聞きましたが、当時の私の様子は、生涯でもこれまで見た事がないぐらい落ち込んでいたそうです。
彼は、寄り添っていてくれたのだと思います。
私も誰かがいてくれる事がよかったのだと思います。

何もする事がないのは、落ち着きません。
そこで、戦艦大和のプラモデルを無言で黙々と作っていました。
その時、フト思い出したのです。

吉田満氏著作「戦艦大和ノ最期」の記載のある臼淵大尉の言葉です。

「進歩のない者は決して勝たない。
負けて目覚める事が最上の道だ。
日本は進歩という事を軽んじ過ぎた。
私的な潔癖や徳義に拘って、本当の進歩を忘れてきた。
敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。
今目覚めずしていつ救われるか。
俺達はその先導になるのだ。
日本の新生に先駆けて散る。
まさに本望じゃあないか」

引用終わり。

負けて目覚める。
敗れて目覚める。

その彼も就職をします。
外資系のファッションメーカーでしたが、彼もほどなくして、辞める事を選択します。

私の部屋へやってきた彼が言いました。
「俺さ、スイスのホテル学校へ行こうと考えているんだよね。どう思う?」
相談がてらそう言った彼に、私は「そうすればいい」と即答しました。
「そういうと思ったよ」と彼は笑いました。

私は「自分の友人にホテルマンを目指し、スイスのホテル学校に留学している友達がいる。それは俺の誇りだよ」
そう話しました。

互いに、今は別々の場所で働いていますが、あの琥珀色の時間は今も私たちの底を流れています。
人は弱さを抱えながらも、目覚め、進歩し続けることができる。
そのことを、私は彼との時間から教わったのだと思います。

2025年10月24日 (金)

絶望から立ち上がる「希望」こそが力。マーラーの真骨頂。

Akatsuki225

バブル景気が華やかりしころ、マーラーがブームになった事があったと思います。
ウィスキーのCMで、マーラーの「大地の歌」、「青春について」だったかな。
(調べると、きっと発見できると思うのですが、そこに記載されている文書に引きずられるので止めておきます)
鳥獣戯画の絵を利用していた様な。

ベートーヴェンの「運命」の様に、闘争から勝利へも、とても勇気づけられます。
でも、マーラーはなぜか、寄り添うように聞こえるのです。

バブル景気の陰りが見えて、享楽的な夢から覚めるのと同時に、祭りの後のさびしさがやって来る。
自分とは何か、なぜ生きるのか、孤独とはなど、エネルギーが自分の内向きになる時。
レベルは違えど、同じ要素に悩まされた人が、マーラーの生涯に共感する部分が増加するのでしょう。

そんな思いの時に、マーラーは等身大に映るのかもしれません。
偉大な芸術家を等身大というのは強烈ですが、恐れずに書きます。
作品が認められなかったり、孤独だったり、死への恐怖があったり。
生きている間は辛い事が多くあった。

偉大な芸術家でも、そんな事があるのだ。
同じ思いに苛まされている。

マーラーは生前、作品が完全に認められなかったり、指揮者としての激務の中で孤独に苛まれたり、そして何よりも「死への恐怖」を常に抱えて苛まされていたと数々の書籍で読みました。
マーラーの交響曲は、生きる事の苦しみや哀しみ、その表現に多く膨大な時間が割かれていると思います。

マーラーの音楽を聴くとき、こう感じるのかもしれません。

偉大な芸術家でも、こんなに孤独で、死を恐れ、苦しみに苛まれていたのだ。
苦しんでいるのは、自分一人だけではない。

自分だけじゃない、誰もが同じという共感の念こそが、大きな慰めとなります。
偉大な芸術家が抱えた生身の体温と、自分の体温が重なり合うその瞬間。
人は孤独から解放され、改めて「自分も頑張ろう」という静かな勇気が湧いてくると思うのです。

マーラーの哀しみや、孤独、苦しみ、死への恐怖などが、その楽曲を通じて、寄り添っているように感じる。
そこに、人としての、同じ体温を感じるのではないでしょうか。

死や苦悩の描写の後に、壮大な合唱や歓喜の響きによる「希望」や「救済」のクライマックスが用意されています。
不安な時代だからこそ、その不安や絶望を乗り越えた先にある強烈な「希望」を求める気持ちが強くなる。
マーラーの音楽は、そのドラマティックな起伏を通じて、不安定な時代を生き抜くためのエネルギーとなります。

若い頃、マーラーを聴く機会は少なかったです。
少し大人になって同じに聴いても、感じ方が変わりました。

バブル景気が弾けて祭りの終わりを感じる時、社会全体に漠然とした不安や閉塞感が覆います。
物質的な豊かさの後に、精神的な充足や自己の存在意義を深く問う風潮が生まれました。
自分探し…なんて言葉が聞かれるようになったと同じ時期です。

複雑で内省的な響き、そして長大さゆえの「人生」や「宇宙」といった巨大なテーマ性は、この時代の不安や孤独を感じる人々の心境と重なり、共感を得ました。
孤独や不安、人が生きる哀しみにのたうちまわるのに、その後に、壮大な合唱や歓喜の響きによる希望や救済のクライマックスが用意されています。
だからいい。
私はそんな思いがあります。

今の季節、交響曲第3番第6楽章「愛が私に語ること。」ピッタリです。

2025年9月22日 (月)

分断される人と人の関係に、寛容の心。

Akatsuki224

電車の広告。
配信ドラマのの広告が掲示されていました。

内容は観ていないので、わかりません。
しかし、広告は一目見ると、誰が悪役で誰がヒーローなのかわかる構図です。
いい人悪い人が、一目でわかります。
ヒーローと悪役がはっきり分かれていたあの頃が、懐かしく感じることはあります。

子供の頃、ウルトラマンを始めヒーローの勧善懲悪な構成はわかりやすかったです。
その物語が一番満足をしていました。
きっと、安心していました。

でも、その物語の中にもジャミラやシーボーズの様に、怪獣側に事情がある物語もありました。
それは、幼いながらにも心が激しく動いた思いが残っています。

人と人の関係は、複雑な事情がたくさんあると思います。
育ってきた環境や今の立場、そして責任や日々の思い。
例えば、その思いを一色で示してください…と言われても誰もが表現出来ないと思います。

陰謀論に始まり、主義主張に他人と自分を区別する材料は多くあります。
昨今は互いに興味を持つ場面があっても、その信条に異なる場面がわずかにあれば、反目する関係としてしまう事があると感じます。
単一の事が、その人すべてを判断する材料となってしまいます。
その人の今を構成する要素は、ただ一つではない事は理解もされないし、許容もされない事となります。

今見えること、その他のわずかな事が判断の全てとなり、◯か✕、許容か拒否か、好きか嫌いかなど、二者択一の判断に落とし込まれていまします。
配信ドラマの広告に同じく、わかりやすい事は一面安心であり、理解をしやすく、苦しむ事が少なくなると思います。
しかし、そのわかりやすさは、その人のすべての背景を無視し、わずかな違いで互いを拒絶する分断を生んでいないだろうかと考えるのです。
ジャミラやシーホース、鬼滅の刃の鬼(例えば妓夫太郎と堕姫の兄妹の様に)が、鬼にならくてはならなかった事情など、人には表に現れない多様な事があります。
伊集院静さんは、誰もが人には言えない事情を抱えて生きていると話していた事が印象に残っています。

大林宣彦監督の映画「さびしんぼう」は、多感な時期に観た事が影響しているかもしれません。
家庭用のビデオデッキが普及し、最初に購入したのはこの映画のビデオでした。
その映画の中で、小林稔侍さんが演じる父親が、息子役の尾美としのりさんに向けでこう語るシーンがあります。

人を好きになれ。
その人のいいところも、嫌なところも、すべて好きになれ。
全部を好きになれ。

私が観ている隣で、おふくろがいつしか観ていました。
観終わった後、この映画の中心はそのシーンだと、自分の感想を言っていたことを覚えています。

世界中で、たったひとつ事で分断し、違いを認める心の許容が生まれない事は、最後は自分を苦しめる事になると思うのです。
安易な二者択一に陥ることなく、相手の持つ多様な側面を受け入れること。
それが、真の意味で自分を自由にし、苦しみから解放してくれるのではないかと考えるのです。
分断した相手をやり込めれば、それは自らが正しい事の証明となり、勝ち誇る気持ちになるかもしれないです。
でも、人は多くの要素と背景を持ち、絶対だと思っていた事が、脆く壊れやすい事を知っています。
その事に、その思いに蓋をし、見ないことにする。
それが、いちばん苦しい事である事も知っていると思います。

本当の自由は、いつでも真実を求められる心にあると思うのです。

2025年5月26日 (月)

「ひとりぼっち」が、誰かを救う光になる時。「夢の帰る場所」と、分かち合える孤独。

Akatsuki012


1994年玉置浩二さんが、本田美奈子さんと共演した単発ドラマ「夢の帰る場所」。
このドラマの事を時折思い出します。

ドラマのクライマックスで、劇中玉置浩二さんが演じるタクシードライバーが、本田美奈子さん演じるアイドル歌手に語ります。

「だから言ったろ。ジョンレノンが死んでから、みんなひとりぼっちだって…」

ジョン・レノンの死は、多くの人の心に、まるで置き去りにされたような、共通の寂しさを感じさせた事件だったのかもしれません。
その死は、ジョン・レノンが象徴していた平和や愛、連帯といったものが、突然失われたかのような衝撃を世界に与えました。
その喪失感から「みんなひとりぼっち」という感覚が生まれたのは、ある意味自然なことだったのかもしれません。

このセリフの後、マンションから投身自殺を図ります。

ベランダに立ちあがったその時、「違う!今感じているその孤独が多くの人を救う。
同じ思いをしている人で、共感してくれる人、あなたが苦しんだ事で、同じ思いの人を救えるんだ。
膝を抱えて、あなたが現れるのを待っている!」と思ったのです。

涙が止まりませんでした。

孤独を感じることは、辛い体験です。
渦中にあれば、その事以外を考える事、思う事はとても難しいです。
でも、その孤独を通して「同じ思いをしている人がいる」と気づき、「あなたの苦しみが誰かを救う力になる」という希望を見出すことができる。
でも、自分が知り得る以上の、孤独や哀しみを抱えた人がいます。
そんな事は、思い上がりだと思う日もあります。
でも、様々な場面で、フィクションである映画や小説の中でさえ、自らの思いを投影できる場面があります。

人が感じる感情には、それぞれに意味があると私は信じています。
特に痛みや苦しみといった感情は、それが深いほどに、他者との共感を生み出し、繋がりを深めるきっかけになることがあります。
「違う!今感じているその孤独が多くの人を救う」と感じたように、自身の経験が誰かの光になる。
そう信じることは、大きな力になります。
事更にその事を吹聴する必要はないと思います。
必要な時でなければ、そんな話はうっとしいだけです。

「ひとりぼっち」という感情こそが、実は多くの人をつなぐきっかけにもなると感じています。
同じように寂しさや孤独を感じている人がいることを知ることで、人は共感を覚え「自分だけじゃない」という安心感を得ることができます。
このセリフは、一見すると絶望的に聞こえるけれど、その裏には、人々が分かち合える感情の深さを示しているようにも感じられます。

「夢の帰る場所」で流れた劇中歌の「Sacred Love」
このドラマの後に発売された玉置浩二さんのアルバム「Love Song Blue」の、その発売を心待ちにしていました。

ドラマには、既に共感者が現れています。
小さな女の子でした。
その子が抱えていた哀しみ、大人たちの誤解、そして孤独が描かれるシーンは、本当に哀しくなりました。
人の世の終わらない哀しみに、やるせない感情が込み上げてきます。
純粋な子供が、大人の世界の複雑さや不器用さによって傷ついていく姿は、観ている側の心にも深い傷跡を残します。

あのドラマは、単なるフィクションとしてではなく、誰もが経験しうる、または目の当たりにするかもしれない人間の本質的な部分を鋭く描いていたからこそ、あんなにも共感したのだと思います。
「Sacred Love」のメロディーと歌詞が、その哀しみをさらに深く、美しく際立たせていました。
歌が上手い事は、書くだけ野暮です。

私たちの心の中に、「人は皆、多かれ少なかれ孤独や哀しみを抱えている」という普遍的な真実を教えてくれている思いがあります。
そして、だからこそ、互いを理解し、支え合うことの大切さを改めて感じさせてくれます。

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