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2026年2月

2026年2月17日 (火)

忘却という名の慈悲。

Akatsuki226

幼い子供で、その前の人生を語る子供もテレビ番組で観た事があります。
俗にいう、前世はこうでしたという語りです。
複数回観ましたが、その視点は別々で、単純に覚えているという事から、そのことが苦しみになるという事の様々なとらえ方でした。

輪廻転生が間違いない事であれば、繰り返す生は修行です。
魂を繰り返す生の中で高めなさいという、普通では想像が出来ない高次からのメッセージなのだと思います。

私には前世の記憶はあった覚えがありません。
今を生きる自分が、過去の恥ずかしい行いや発言、その失敗が忘れられず、ふとした疑問にその思いがよみがえる事があります。
また、悔しい思いがよみがえる事もあります。

過去の奴隷にはなっていませんが、まだ呼び覚まされるその記憶に辟易とする事は、ないわけではありません。

そんな自分が、前世の記憶があれば、やっぱり未熟な行いを忘れる事はなく、苛まされる事もあると思います。
今を生きていても、繰り返すのに、そこの前世の失敗も加えられると、それは辛いです。
また、前の時と同じ事をしている。
恥の上塗りが二倍です。
ちょっと絶望的な気分になります。

今を生きる世界で、前世での行いがカルマとして影響をしている。
なんだか、逃げ場ない気がします。

別の角度から、だからこそ、今を生きることを大切にする。
そうとらえる事ができるなら、まだ救いがある気がします。

肉体はただ、今を生きる魂の器に過ぎない。
これでは、自分を大切にできないです。

Akatsuki227

今日の帰り道、ラヴェルの弦楽四重奏曲第2楽章を聴いていました。
冒頭のピッチカートの不思議な始まりに、そんな思いがよぎりました。
前世と今をつなぎ、空間を超える、そんな感覚を感じるのです。

Akatsuki228

私は今を一生懸命に生きるので、精一杯です。
だからこそ、この器に注がれる今の感情や、聴こえてくる音楽を、私は丁寧に受け止めたいです。

2026年2月 9日 (月)

小さな哲学者。

Akatsuki226

生まれて間もない長男が、初めて外出した日のこと。
大きなケヤキの木の下のベンチに座り、私の腕に抱かれた彼は、じっと空を見上げていました。

その日は秋晴れで、柔らかな風が吹いていました。
高くそびえるケヤキの葉が、空に近い場所でさらさらと揺れている。
その様子を、彼は眉間にシワを寄せるでもなく、どこか「難しそうな顔」をして見つめていました。

空の青さも、揺れる葉の影も、耳をくすぐる音も。
彼にとっては、すべてが人生で初めて経験する「未知」です。
その時、小さな彼が何を思っていたのか、今となっては確認する術もありません。

けれど、恐れおののくのではなく、今自分の目の前で起きている自然の現象をただ凝視する。
その真剣な表情を見て、「なんだか哲学者のようだな」と感じたことを、今でも鮮明に覚えています。

今日の東京は、久しぶりの雪になりました。
空からは音もなく、大きな雪の欠片が舞い降りています。

投票所へ向かう道すがら、赤ちゃんを抱いたお母さんとすれ違いました。
その赤ちゃんもまた、かつての長男と同じように、空から降る雪をじっと凝視しています。

やはり、哲学者の顔をしていました。

翻って、私たち大人はどうでしょうか。
「何でもわかっているつもり」になり、身の回りの大切な変化を見落としてしまうことがあります。
いえ、あるいは気づいていても、変化に伴うストレスを避けようとして、意図的に「知らなかったこと」にしてしまっているのかもしれません。

「諸行無常」は道理として理解していても、今が快適であれば、それがいつまでも続くと信じたい。
続かせたい。それが人の常なのでしょう。

しかし、ビジネスの世界においても、昨日と同じ今日が続くことはまずありません。
今から30年前、これほどまでにネットワークが張り巡らされた社会を想像できていた人は、私を含め、ほとんどいなかったはずです。
人の可能性の地平線は、私たちの想像が及ばない、もっとずっと先にあるのだと感じずにはいられません。

ケヤキの葉が、遠い空の上で揺れる様とその音。
白い空から次々に降りてくる、雪の欠片。
そのすべてが、彼らにとっては「初めて」の連続です。

雪を見上げる小さな哲学者たちは今、何を思うのか。
大人になった私たちが忘れてしまった「凝視する力」の中に、未来を読み解くヒントが隠されているような気がしてなりません。

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