余白。
毎日の通勤路は当たり前になると、素晴らしい景色があっても鈍感になってしまいます。
倉本聰さん脚本の「君は海をみたか」で、毎日通勤で利用する電車の車窓を覚えているか…との台詞がありました。
仕事場への移動となれば毎日の事で、その日の業務や懸案事項が頭に浮かんでいれば、通勤時の景色を思う余裕はないですね。
丁寧に生きる…という言葉を様々なメディアで見ます。
日々の暮らしで、気持ちに余裕がないと様々な事に目配せが出来なくなるのは事実です。
毎日同じ作業をしている部分では、ある意味無意識に身体が動き、気がつくと車で職場に向かっているとか、運転しているとかハッとする事もありました。
あぶないですね。
日々の通勤ですれ違う車や人が記憶に残り、毎日の事となります。
あれ、今日はあの人の姿がないな…とか、日常の繰り返しが当たり前となる事があります。
母方の祖父の出身は、漁師町でした。
私が幼い頃、夏休みで行くと、〇〇〇(母親の名前)の坊主と認識されていました。
または、祖父の名前で〇〇さんちのお孫さん。
小学生は成長早く、1年前とは大きく姿が変わります。
同じように翌年に行くと、知らないおじさんやおばさんに「大きくなった」と言われます。
私は「どちら様でしょう?」という感じです。
祖父も亡くなり、私は部活や受験で足が遠のきます。
それでも弟は、時間を作って、社会人となっても、時折訪問していた事を知っていました。
祖父と祖母は実家が近隣で、共通の親族や親せきがいます。
祖母も亡くなり、その納骨の日の事。
時間の都合が出来た私は、両親と共に納骨に立ち会いました。
私と弟は似ています。
私を見た方々が「先生、元気。久しぶり」、と声をかけてくれます。
弟は医師です。
私は兄であり、弟は残念ながら、本日は列席出来なかった事を伝えます。
ひとりではありません。
社会人になって、様々な人とのネットワークの中で、仕事をしている事を感じます。
自らの能力には限界があり、多くの人との力をお借りしながら、成果を求めます。
人脈という言葉は、利害のみが優先している様で好きではありません。
でも、これが活きます。
人脈が様々な仕事を行う時の、ネットワークとして活きるにはメンテナンスが必要です。
年賀状終いの案内が増えて行く。
実際に会う事よりも、電子媒体での接触が増加し、要件のみとなる。
余白がない。
例えば、契約書の確認に送る枕紙に、何か一言書き加える。
イチョウの葉が色づき、景色は見事ですが、車につぶされた銀杏は臭くてたまりませんとか。
営業担当の時代にも、連絡に何か業務とは異なる事を書き加え、相手の印象に残った記憶があります。
1年ぶりにあっても、「おう、坊主大きくなったな」と言われる。
このサイズが、人間には合っている気がする事があります。




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