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2025年9月

2025年9月29日 (月)

映画「きみはいい子」、痛ましいニュースから考える「誰かを救う力」の事。

Akatsuki224

先日、胸が締め付けられるような痛ましいニュースが報道されました。
わずか2歳の幼い命が、親からの虐待によって奪われたという出来事です。
痩せ細った身体、治療されることのないまま傷つけられた骨折の痕。

その絶望は、想像するに余りあります。

亡くなった女の子にはお兄さんがいたそうです。
彼が背負うことになった心の傷は、どれほど深く、容易には癒えないだろうと考えると、言葉を失います。

世界を救えなくても、「誰か」は救える
そんな時、ふと頭に浮かんだのが、中脇初枝さんの小説、そして映画化された作品「きみはいい子」です。

私は映画を先に観て、その後に原作を読みましたが、どちらも素晴らしかった。
作品が問いかけるのは、虐待や育児放棄という現実の厳しさ、そして、それにどう向き合うかという、「優しさの連鎖」というテーマです。

物語を通して描かれるのは、「子供に優しくすることで、その子供もまた誰かに優しくする。やがて、世界はやさしさで満たされる」という希望です。

もちろん、これは夢物語のように聞こえるかもしれません。
しかし、映画のCMに使われた「世界を救うことはできなくても、誰かを救うことはできる」という言葉には、単純でありながらも底知れぬ深さがあります。

底知れぬ深さを持つ、小さな優しさ
私たちは皆、世界中の悲劇を止めることはできません。
大きな社会システムや構造を変えることは、非常に困難です。

しかし、目の前にいる「誰か」に、優しく声をかけること、温かい手を差し伸べること、話を聞いてあげることはできます。

「誰か」を救うという、手の届く範囲の希望。
この個人的な行為の積み重ねこそが、絶望に満ちた世界に光を灯し、痛ましい連鎖を断ち切る唯一の方法ではないでしょうか。

今、私たち世界中の人に求められているのは、この単純だけど奥の深い、「誰かを救う力」なのかもしれません。

*映画『きみはいい子』予告編

映画の雰囲気に触れてみたい方は、ぜひ予告編をご覧ください。
映画「きみはいい子」予告編

2025年9月25日 (木)

僕の「居場所」は、祭りの準備の中にある。

Akatsuki224

花火大会というと、祖父との記憶がよみがえります。

よさこい祭りの前夜祭は鏡川での花火大会です。
ずいぶん前に亡くなった、祖父との思いでがあります。
この花火大会の場所取りに、昼間から祖父と行っていました。
何気ない夏休みの思い出です。

花火大会の場所取りです。
祖父は場所取りの間に飲む事が出来る。
私は勉強しなくていい。
祖父は保冷バッグから缶ビールを取り出し、私はリュックから漫画を取り出す。
利害が一致したふたりは、いそいそと場所取りに出かけていました。
帝国海軍の厳しかった祖父は、孫である私にはメロメロでしたから、ふたりとも楽しいです。
祖父と会話したり、好きな事が出来て、場所取りが楽しい。
祖母や両親が来る頃は疲れ切って、でも満足で花火大会はどうでもいい状況でした。

各地で行われる昨今の花火大会は、有料の観覧席が設けられています。
相撲の升席サイズで、芝生の上の席なら購入が出来ます。
快適だなと思います。

花火大会の当日、開演の前から会場へ向かうと思しき人たちを確認出来ます。
女の子の浴衣姿がかわいいカップル。
花火より夜店に向かい、大声でわめきながら自転車で走る小学生。
ビールが入っていると思われるクーラーボックス片手に会場へ向かうご夫婦。
それぞれに楽しそうです。

同じ会場の有料席を2年は予約しました。
1年目は家族と観覧。
2年目は家族がコロナに罹患し中止。
本年は都合がつかず、予約もしていません。

2年目の時、席を予約してあるので、ひとりでも行ってくればいいとの事。
周りは家族やカップルばかり。
そこで、おっさんがひとりで升席ひとつ独占し、花火を観ている姿は寂しすぎます。

仕事を含めて様々な立場で、いろいろなイベントを企画し、実行してきた事があります。
そんな企画でも、運営当日に上手く回転し始めると、急速に冷めてくるのです。
企画段階でほぼ燃え尽きてしまうのか、当日の成功に酔う事より冷めてくるのです。
企画に参加している方々や運営している方々の笑顔が出始めると、それが合図の様です。

上手く行っているとうれしい。
でも、私の役目は終わった。
もう、ここにいる必要はないと思ってしまうのです。

上手く行っている事。
企画が成功に終わる事。
誰かが喜んでいる事。

それが垣間見えると満足なんです。
そして、ここに自分の居場所はもうないと思うのです。

花火を観て満足している家族の顔を見るだけで、私は十分満足なんです。
それは、まるで自分が企画したイベントが成功し、参加者が喜んでいるのを見た時の感覚と同じなのかもしれません。

カッコつけすぎかもしれません。
でも、成功している姿はうれしいのに、その場所で、とてつもない疎外感を感じる時があります。

きっと私は祭りより、祭りの準備の方が楽しいのです。
何かが始まる。
そんな高揚感の方が好きなんです。
だから、花火大会に楽しそうに出かけて行く、そんな人々を見る事がうれしいのです。

2025年9月24日 (水)

占いは苦手。それでも見ちゃう理由。

Akatsuki224

占いは苦手。
そう言うと、大抵の人は驚くかもしれないです。

きっと、自分の気が弱い部分です。
占いで、今日はこうですとか、ラッキナンバーはこれですとか、ラッキーカラーはこれです等々気にしてしまうと思います。

占いは確率と統計という人もいるし、その人のこれまでの行動や物事の判断の仕方で予測がつくなど様々に言われます。
凡人には想像が出来ない、そんな世界を垣間見る事が可能な人がいる事も否定はしません。

占いは人間関係の良い潤滑油となります。
例えば接待の席で、お客様をクラブやスナックに案内した時(最近は本当になくなりました)。
お客様の生年月日を記憶しておき、お姉さま方と共通の話題として利用する。
会話のスタートとして、○○座のタイプはこんな人で、私も〇〇座…と会話がスタートする。
それ以上も、それ以下もありません。

様々な出来事があります。
その中で、自分を取り巻く環境に問題があると認識する事があります。
その環境が悪い事に嘆き、悪態をついてみても、環境は変わらないです。
その環境下で起きた問題を、嘆いても、悪態をついてみても、変わりません。
なんとか改善しようと試みますが、なかなか上手く行かない事がほとんどです。

占いで、人間関係は改善して行くでしょう…と書かれていても、誰がそうしてくれるんだろうと考えます。
突然、自分の中から、問題解決の指針が浮かび上がってくるのでしょうか。
問題は解決すると考え続けなければ、解決にたどり着けない事は承知しています。

自分自身が変わらなければ、周りの環境は変わらないです。

自らの決断を占いが勇気づけ、後押ししてくれる日があるかもしれません。
しかし、待っていても、解決してくれるとした占いの通り、問題を解決してくれる事はありません。

自ら動かなければ、何も変わらないです。

そうして心掛けるように自らに課す私には、今日いい事がありますよ…は自分の行動の結果としてあるものです。
占いを信じないのではなく、自分の意志の決定には関与させず、でも、勇気づけられると都合の良い部分を利用するのがいいですね。

占いで、今日は〇〇なので、例えば今日のデートは中止。
これはつまらないです。

そんな時は、占いはあたらないよ。
占いより、私を信じてと声を大にして叫びたいです。
つまらないですと占われていたら、どうしたら楽しくなるかと考えるからです。
できれば、一緒に考えられるなら、もっと仲良くなれますね。

占いは「きっかけ」であり、「答え」ではない。
自ら動かなければ、何も変わらないです。

2025年9月22日 (月)

分断される人と人の関係に、寛容の心。

Akatsuki224

電車の広告。
配信ドラマのの広告が掲示されていました。

内容は観ていないので、わかりません。
しかし、広告は一目見ると、誰が悪役で誰がヒーローなのかわかる構図です。
いい人悪い人が、一目でわかります。
ヒーローと悪役がはっきり分かれていたあの頃が、懐かしく感じることはあります。

子供の頃、ウルトラマンを始めヒーローの勧善懲悪な構成はわかりやすかったです。
その物語が一番満足をしていました。
きっと、安心していました。

でも、その物語の中にもジャミラやシーボーズの様に、怪獣側に事情がある物語もありました。
それは、幼いながらにも心が激しく動いた思いが残っています。

人と人の関係は、複雑な事情がたくさんあると思います。
育ってきた環境や今の立場、そして責任や日々の思い。
例えば、その思いを一色で示してください…と言われても誰もが表現出来ないと思います。

陰謀論に始まり、主義主張に他人と自分を区別する材料は多くあります。
昨今は互いに興味を持つ場面があっても、その信条に異なる場面がわずかにあれば、反目する関係としてしまう事があると感じます。
単一の事が、その人すべてを判断する材料となってしまいます。
その人の今を構成する要素は、ただ一つではない事は理解もされないし、許容もされない事となります。

今見えること、その他のわずかな事が判断の全てとなり、◯か✕、許容か拒否か、好きか嫌いかなど、二者択一の判断に落とし込まれていまします。
配信ドラマの広告に同じく、わかりやすい事は一面安心であり、理解をしやすく、苦しむ事が少なくなると思います。
しかし、そのわかりやすさは、その人のすべての背景を無視し、わずかな違いで互いを拒絶する分断を生んでいないだろうかと考えるのです。
ジャミラやシーホース、鬼滅の刃の鬼(例えば妓夫太郎と堕姫の兄妹の様に)が、鬼にならくてはならなかった事情など、人には表に現れない多様な事があります。
伊集院静さんは、誰もが人には言えない事情を抱えて生きていると話していた事が印象に残っています。

大林宣彦監督の映画「さびしんぼう」は、多感な時期に観た事が影響しているかもしれません。
家庭用のビデオデッキが普及し、最初に購入したのはこの映画のビデオでした。
その映画の中で、小林稔侍さんが演じる父親が、息子役の尾美としのりさんに向けでこう語るシーンがあります。

人を好きになれ。
その人のいいところも、嫌なところも、すべて好きになれ。
全部を好きになれ。

私が観ている隣で、おふくろがいつしか観ていました。
観終わった後、この映画の中心はそのシーンだと、自分の感想を言っていたことを覚えています。

世界中で、たったひとつ事で分断し、違いを認める心の許容が生まれない事は、最後は自分を苦しめる事になると思うのです。
安易な二者択一に陥ることなく、相手の持つ多様な側面を受け入れること。
それが、真の意味で自分を自由にし、苦しみから解放してくれるのではないかと考えるのです。
分断した相手をやり込めれば、それは自らが正しい事の証明となり、勝ち誇る気持ちになるかもしれないです。
でも、人は多くの要素と背景を持ち、絶対だと思っていた事が、脆く壊れやすい事を知っています。
その事に、その思いに蓋をし、見ないことにする。
それが、いちばん苦しい事である事も知っていると思います。

本当の自由は、いつでも真実を求められる心にあると思うのです。

2025年9月12日 (金)

ジャケットに導かれた、親としての問い。

Akatsuki222

ジャケットの装丁に惹かれて、レコードを買った事が何度かあった。
その内のひとつが、小椋佳さんの「かなうならば夢のままで」というアルバム。
小椋佳さんは聴いた事がありましたが、レコードは買った事がなかった。
確か、アルバムタイトルは映画の主題歌だった気がする。
実家のレコード棚には残っていると思う。
青を基調にした背景にキキョウか、ランの、なまめかしい花が描かれていたと記憶している。
学生時代で、自由になるお金も少ないので、おそらく中古レコードを買ったと思う。

リチャードクレイダーマンのアルバム「秋のささやき」も素敵なジャケット。
落ち葉がとても美しい。
ジャケットの表も裏も、一面の落ち葉となっている。
様々落ち葉の色彩が、なんとも美しい。
美しい落ち葉の写真中央に、ピアノを弾くリチャードクレイダーマンが正方形で小さく。
楽曲も、とても好きだった。

小椋佳さんで記憶にあるのは、子育ての事。
この事をいつ聞いたのか、どこでなのかも記憶がない。
でも、印象に残り覚えていた。

彼の銀行員としての一面と、親としての葛藤の話が、なぜか強く心に残っている
それは、こんな事だった。
小椋佳さんは銀行員で、社内でも管理職として部下を持つ立場。
部下の指導に際しては、原因と結果を検証し、成長を促してきたのだと思う。

ところが、これを自分の子供にも幼い頃から同じ手法をとった。
子供は大変な事になり、小椋佳さんが子供の教育を考え直すきっかけになった。
子供と部下は違うと気がついた。

多分、こんな話だったと思う。

自身の思春期。
特に親父に対しては、自分はあなとは違う人間だと思う事が多くあった。
小言は言われない方だったと思うが、考えを押し付けられると感じる事が、何より苦痛だった。
特別に医者になれとか、先生になれとか、将来の事を決めつけられた事はない。

しかし、この苦痛は耐えがたいものだった。
きっと小椋佳さんの子供の気持ちが、理解できる気がしたのだ。

自分に子供が出来てどうだったか。
少なからず、同じ思いをさせて事はあっただろう。

私はとにかく一緒に遊ぶ事にした。
休日も全力で、一緒になって遊んだ。

将来の事を決めつける事はなかった…と思う。
今、私の子供はどう思っているだろうか。

2025年9月11日 (木)

徹夜の読書と不純な動機。

Akatsuki222

吉行和子さんの訃報が報道されていた。
本日の日本経済新聞の1面コラム「春秋」も吉行和子さんの事だった。

中学生1年生の時、吉行和子さんのお兄さんにあたる吉行淳之介の著書「ぼくふう人生のノート」を読んだ。
徹夜で読み、母親から「徹夜で読んだのは、その本か…」と半分がっかりしながら、半分笑われながら言われた。
何気なく手に取った。
文庫だったので、中学生のお小遣いでも買えたのだと思う。

吉行淳之介さんのパーソナルな事は知らなかったし、ただ手に取った本が面白かったので読んでしまったのだ。
恋に恋する年頃であるが、大人の男女の、その未知の世界に引き込まれたのだ。

著作の中に引用され登場する文学作品もオペラも、まだ読んだり聴いたりした事がないものだった。
これ以降、その文学作品を読み、音楽を聴いても、この本と結びつけて記憶がよみがえる事はなかったと思う。

これまで読んだ本の中にはなかった著作の中の、ウェットな表現に惹かれた。
そんな言葉が、上手に女の子の前で使えたらいい。
かっこをつけるために読んだ。
そんな不純な動機だろう。

おそらく自宅の本棚にはあると思う。
読後の本はたくさん売ってきたが、そんなおぼろげな記憶が、この本を売る側にさせなかったのだろう。
本棚にあるその一冊は、単なる物理的な存在ではなく、当時の自身の心境や、あの夜の空気感を思い出させてくれる、タイムカプセルのようなもの。

吉行和子さんのご冥福をお祈りいたします。

2025年9月10日 (水)

なぜ「お前は甘い」は心に響かないのか。

Akatsuki222

気持ちが変わっているのかもしれない。

ビジネス本は好きで、新しい発見や新しい方法。
そう言う事を気づくまでのプロセスや、厳しい環境の中で頑張っている人の物語は参考になるし楽しい。

目的により選択に違いがあるのは間違いないと思うが、その類の中で「自分はこんな厳しい状況から立ち直った。おまえらの状況はまだまだ甘い。もっと頑張れ」みたいな本は面白くない。
ビジネス書は自らを奮い立たせるために読む人もいるだろうし、新しい発見を求める人もいるので、様々あっていいと思う。

お前は甘い。それに比べれば俺はもっと厳しかった、だから頑張れ。

事更に、その事ばかり強調する。
困難な状況を打破し、その事を誰かに説明できる具合になる。
それは素晴らしいと思う。
しかしそれは、楽しくない。

生きていれば誰しも、深い哀しみに沈む日がある。
そんな人を勇気づける時、私の哀しみの方が深かった。
だから早く立ち直れ。
比較の中で勇気づけられ、その哀しみから抜け出す事が出来る人もいるだろう。
でも、それは稀な方だ。
哀しみの深さ、それは人によって、これまで生きてきた環境やこれまでの背景で全て異なるからだ。

深い哀しみを知る人はやさしい。
その哀しみを自分の力に変えて、同じ哀しみに苦しむ人にはやさしい。

例えば、そんなやさしい人との出会い。
例えば、音楽や絵画、風景。
そこから感じる事、それに勇気づけられる。
その意味を知る事で、立ち上がる事が出来る。
自らの気持ちの中から、そんな思いが湧きたつ事が、本当に強くなる事。
そして、哀しみから立ち上がるきっかけになると思うのです。

でも、この事も一辺倒ではなく、叱咤激励されたりする事の方がいいタイプの人もいる事は間違い。
私は何かをきっかけに、自らの心の中から立ち上がって再生して行く事がいいと思うのです。

自らの意思で決めた事に、自らの強い意志を持って進む。
そこにはやさしさと強さが同居していると思う。
外からの圧力や叱咤激励で一時的に奮い立つことはあっても、本当に困難を乗り越えるためには、自分自身の中から湧き出る力が不可欠。
それは、誰かに言われてやるのではなく、自分が本当にやりたいと心から思える道だからこそ。

2025年9月 9日 (火)

聞き分けの無い老人になって行く心配。

Akatsuki222

現在の仕事は、多くの仲間と行っています。
その上で、予測出来なかった事や成功も失敗も多々あります。

そんな毎日の中で、近頃自分でもおかしいなと思う事があります。

他の人の失敗は許せるし、次の発展的な方策を考える事が出来るのです。
そういう気持ちになるのです。
ところが、自分の事となると、どうにも腹が立って仕方がありません。

これは仕事の場面ではありません。
例えば、道を間違える。
そんな些細な自分の失敗が許せないのです。
自分に対し、腹が立ちます。

自分が不愉快な態度をとれば、周りの人も楽しいはずがないです。
他人の失敗は受け入れ、次の事を模索する。
決して、失敗した人を下に見ているのではありません。

他の人と同じ失敗をしていない事があるかもしれませんが、自らの事はたまらなく腹が立ちます。
それも、すぐにスッキリしない。
自分の失敗は失言、資料の誤りと本当に許さず、いつまでもグタグタと考えるのです。

こういうのが、聞き分けの無い老人になって行くのではと心配です。

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