本当に求めているはずの幸福について深く考えることを避けてしまっている。
花が咲いていても何も感じず、咲いていることすら気づかない時がありました。
今、花が咲くことをうれしいと思うことがあり、その思いを人と共有することもあります。
見えているものも、見えるものも、時々で変わってゆくと思います。
かつては、読書の中に含まれるビジネス書は7割を占めていました。
事業を成功させた人、新しい仕組みを作り上げた人。
何か自分のビジネスの中で、活用できることがないかと求めて読んでいました。
今、ノウハウよりも、人の心の動きがわかる物語や人の物語の本が7割になりました。
知の巨人たちの、その知の片りんに触れることで、花が咲くことに、花が咲いていることを知ります。
気づかされることがあります。
幸福について考えることはすでに一つの、おそらく最大の、不幸の兆しであるといわれるかもしれない。
健全な胃をもっている者が胃の存在を感じないように、幸福である者は幸福について考えないといわれるであろう。
しかしながら今日の人間ははたして幸福であるために幸福について考えないのであるか。
むしろ我々の時代は人々に幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸なのではあるまいか。
幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか。
しかしながら幸福を知らない者に不幸の何であるかが理解されるであろうか。
今日の人間もあらゆる場合にいわば本能的に幸福を求めているに相違ない。
しかも今日の人間は自意識の過剰に苦しむともいわれている。
そのきわめて自意識的な人間が幸福についてはほとんど考えないのである。
これが現代の精神的状況の性格であり、これが現代人の不幸を特徴付けている。
人生論ノート 幸福について / 三木 清
三木 清の言葉は、現代社会の病理を鋭く抉り出しているように感じます。
およそ80年前の、その時を生きた人の言葉が、あまりに今を相似形として映します。
「幸福について考えることはすでに一つの、おそらく最大の、不幸の兆しである」という冒頭の言葉は、一見すると逆説的ですが、深く頷けます。
本当に満たされている状態であれば、わざわざその状態を意識したり、言葉にしたりする必要はないのかもしれません。
しかし、現代においては、「健全な胃をもっている者が胃の存在を感じないように、幸福である者は幸福について考えない」という自然な状態が失われているのではないか、という問いかけは非常に重いです。
むしろ、多くの人が日々の忙しさや社会のプレッシャーの中で、幸福を感じる余裕すら失ってしまっているのではないでしょうか。
「幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸」という指摘は、現代人の心の疲弊を言い当てているように感じます。
「幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか」という言葉には、現代社会の閉塞感や、他者の幸福を素直に喜べないような空気感が漂っているように感じます。
SNSなどを見ていると、他者のきらびやかな生活が目に飛び込んできますが、それがかえって自身の幸福感を相対的に低下させてしまうこともあるかもしれません。
しかし、その一方で「幸福を知らない者に不幸の何であるかが理解されるであろうか」という問いかけは、幸福を追求することの重要性を改めて教えてくれます。
不幸を知るからこそ幸福を求める、あるいは幸福を知っているからこそ不幸に気づくことができるという、両者の相互的な関係性を示唆しているように思います。
そして、「今日の人間もあらゆる場合にいわば本能的に幸福を求めているに相違ない。しかも今日の人間は自意識の過剰に苦しむともいわれている。そのきわめて自意識的な人間が幸福についてはほとんど考えないのである。これが現代の精神的状況の性格であり、これが現代人の不幸を特徴付けている」という洞察は、まさに今を生きる我々の矛盾を突いていると言えると思うのです。
私たちは常に自己を意識し、他者と比較することで疲弊しているにもかかわらず、本当に求めているはずの幸福について深く考えることを避けてしまっているのかもしれません。
誰もが幸せになりたい事に、何も疑う余地はありません。
自分のその気持ちに気づくことが、初めの一歩なのだと思います。
殺伐とした事件の報道が続く中、三木 清の言葉が心に浮かびました。
三木 清は単に過去の哲学者としてではなく、現代を生きる私たちにとっても重要な示唆を与えてくれる「知の巨人」だと改めて感じます。
その言葉を通して、多くの人が立ち止まって自身の幸福について考え、より良い生き方を見つめ直すきっかけになりはしないだろうかと考えるのです。
文中は敬称略としております。
« 明日を生きようとする気持ちを取り戻して行く。 | トップページ | 私の心の引き出しから「雪の断章」を見つけてきました。 »
「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事
- でも、夜明けはもうすぐだ。(2026.08.31)
- 1歳という奇跡の日に想う、命を寿ぐということ。(2026.06.25)
- 福岡の空、遠くの孫 ― 亡き義父の記憶を呼び起こしたテレビの言葉。(2026.05.21)
- 生まれてきてくれて、ありがとう。(2026.05.14)
- 攻撃しない距離を保つ。(2026.05.13)
「思い」カテゴリの記事
- 生まれてきてくれて、ありがとう。(2026.05.14)
- 見えない綱渡りの方が、迷いなく進めるのかもしれない。(2026.04.28)
- 記憶の底に隠した一冊 ―『呪いの館』と『ミルキーウェイ』―(2026.04.24)
- 8メートルの譲り合いと、心の余白。(2026.04.23)
- 3番と13番 ― フォークリフト講習の記憶。(2026.04.21)
「読書」カテゴリの記事
- 記憶の底に隠した一冊 ―『呪いの館』と『ミルキーウェイ』―(2026.04.24)
- 映画「きみはいい子」、痛ましいニュースから考える「誰かを救う力」の事。(2025.09.29)
- 徹夜の読書と不純な動機。(2025.09.11)
- 夏休みと読書感想文、そして宮沢賢治「よだかの星」が問いかけるもの。(2025.07.23)
- 税と格差の根源はどこに? 卑弥呼の時代から「サピエンス全史」が問いかける人類の苦悩に思う事。(2025.05.27)
« 明日を生きようとする気持ちを取り戻して行く。 | トップページ | 私の心の引き出しから「雪の断章」を見つけてきました。 »




コメント