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2025年5月

2025年5月30日 (金)

私の原動力は「執念」です。強みとリスクを乗りこなす。

Akatsuki220

自分が結構執念深いとは、前から思っていたけど、間違いないらしいです。
やられたら、やり返すとか、なんとか自分の思う方向に、物事を導いて行く気持ちが強いと感じる事があります。

取り組んだ事で、大きな決済や権限を持つ立場となった場合は、偉い人病で傲慢でなければいいと思う事しばしばです。
なかなか自分では気づかないから、とても注意すべき事と思います。
裸の王様は怖いです。

でも、屈辱は必ず晴らす。
それが執念になって、頑張れる事も多いんだと感じます。

「やられたらやり返す」「自分の思う方向に物事を導いていく気持ちが強い」「屈辱は必ず晴らす」といった思いは、時として強い原動力となり、目標達成に向けて粘り強く努力できる面もあります。
困難な事にも取り組み、状況を乗り越え、結果を出すためのエネルギーになっている事は間違いありません。
誰かと比較しての、妬みや嫉みは、憧れる気持ちにはなっても、ああなるという執念とは結び付きにくいです。

一方で、「偉い人病で傲慢でなければいいと思うが、なかなか自分では気づかない」という諸刃の剣。
自分の特性を客観的に見つめることは、誰にとっても難しいことだと思います。

多くの仲間や関係者と仕事をします。
目標達成への推進力として、執念深さは困難な課題に直面したとき、諦めずに解決策を探し、粘り強く取り組む力になります。
気合だけでは説得力を持ちませんが、モチベーションを保つには悪くない事だと思います。
また、レジリエンス(回復力)の源として、失敗や挫折を経験しても、屈辱を晴らすという気持ちが、立ち直り、次へと進む原動力になります。
これが周囲への良い影響として、良い刺激となればいいと思います。

あまりに強烈なメッセージとなり、自己認識を欠如すると傲慢になってしまう恐れがあります。
定期的に自分の行動や言動を振り返る時間を持つことで、「傲慢になっていないか」という視点を意識することができると思います。
それを常に心がけておかねばならないですね。

その上で自分の意見だけでなく、他者の意見にも耳を傾け、異なる視点を取り入れることで、多角的な視野を持つことができるのだと思います。
忘れてならない事ですが、成功は自分だけの力ではなく、周囲の協力や環境があってこそ成り立ちます。
感謝の気持ちを忘れずにいることで、謙虚さを保ちやすくなると思います。

根暗なんですね。
ある意味、いつまでも忘れる事なく、復讐の炎をメラメラと燃やし続けるという事ですから。
普段はニコニコしながらも、心の中では違って平静を装っている。
でも、誰にでもある要素な気がします。
いつも意識しているわけではありません。

そのくせ、気持ちの切り替えは速いんです。
それも目指すべきところがあると、ぐずぐずしているわけにはいかない…という思いが強いのかもしれません。

最後にひとつだけ例外を。
女性にだけは、この思いが適用されません。
振られてしまったら、それまで。
次を目指して進むしかありません。

気持ちの切り替えは速いんです。

自分の思い通りに行く事は殆どありません。
だから、自分のモチベーションを保つ、気がつかないうちにやっている事なのかもしれません。

2025年5月28日 (水)

答えの出ない問いと「考え続ける力」について。

Akatsuki012

仕事が多い時、たくさんの考え事がある時。
済ませた事項は頭の中から抜いていかないと、いつまでも考え続け、それがストレスになる事もあります。
結果や結論が示された事項は、その都度頭のメモリーから完全消去は出来ないまでも、意識が向かない様に努めます。

しかし、この世の出来後は、白か黒、〇か✕かで結論づけられない事が多々あります。
実は殆どの事がそう言っていいと思います。
作業メモリーから消去または、無理やりに結論を示し、終わった事にする。
その方が安心する事も否めません。
いや、安心します。

考え続けなければならない問題は多い。
答えが導かれない事、結論が出ない事は気になれば不安で仕方がない。
物事の移り変わるスピードが速ければ、考える事、結論を出す事は波のように続きます。

ろくでもない高校時代。
その年頭公園で、同じ高校の卒業生が講演に来ました。
正月明けで、また学校生活が始まった事が一番嫌な事。
そんな環境の中で聴くので、学ぼうという姿勢などありません。

ところが、ひとつとても印象に残っている事があります。
当時大学教授だった先輩は、こう言ったのです。

疑問に思った事が解決出来なくてもいい。
大切なのは、その疑問を忘れない事だ。

約40年も前のこの言葉が、今日今でも忘れられません。

解決出来なかった問題は予想をしないある時に、他の事項が点と点で結びつき面になります。
その事で、問題や疑問に思っていた事が、解決できる事があります。

以下は引用です。

▼先日放映されたTBSの学園ドラマ「御上(みかみ)先生」の最終回に、こんなせりふがあった。
卒業が近づく高校生への授業。
主人公の教師は「考えて」が口癖だ。
人間関係などの問題が起こるたび生徒自身に考えさせ、自力で解決にたどり着かせた。
しかしこの日はそれまでの自身の授業を否定するような言葉を生徒らに与える。

▼教育とは考える力を養うこと。では考える力とは何か。
コストや時間をかけず正解にたどり着く力と思いがちだが、実は答えのない問題の答えを「考え続ける力」を指すと教師は語る。
安直な善悪二元論、犯人捜し、お仕着せの正解に陥らず、不確実さを受け入れる「ネガティブケーパビリティー」を持て、と説いたのだ。

2025年4月1日付け 日本経済新聞「春秋」より

引用終わり。

ネガティブ・ケイパビリティ(Negative capability)とは、簡単に答えの出ない事態に耐える能力や、問題の不確実性などに疑いを抱きつつ、それを受け入れる能力の事をいうらしい。
不確実な状況に直面することが増加しており、その状況において、ネガティブ・ケイパビリティは、焦燥感や不安に駆られることなく、不確実な状況に耐え、そこから何かを学んだり、新たな視点を得るための重要な能力となる。
靴下の中に石が入っている様な状況で気持ちが悪いですが、それを気にせず、でも石が入っている事を忘れないでいる。
今更ながら、先輩の言葉に唸っています。

考える事をやめなければ、自らの能力が向上する事はさておき、解決の様々なヒントはもたらされる。
そして、いつか問題は解決されるという事ですね。

2025年5月27日 (火)

税と格差の根源はどこに? 卑弥呼の時代から「サピエンス全史」が問いかける人類の苦悩に思う事。

Akatsuki012

選挙が近くなると、必ず減税の話が話題になります。
各方面から思惑がにじむ様々な発言が有り、マスコミもこぞって取り上げます。

小学生で歴史の勉強を始めた時、邪馬台国の卑弥呼が税金の仕組みを導入していた説明がありました。
それは自然発生的に出た話かもしれませんが、幼い私には「思いついた人がすごい!」と思える事でした。

フランスの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の著書「サピエンス全史」で論じられているのは、この事に始まる人類の苦悩です。

狩猟生活から農耕生活への移管が、人類の歴史における「分断」の始まりです。
人類の歴史を振り返ると、私たちの社会が抱える多くの問題の根源が、ある決定的な転換期に見えてきます。
それは、狩猟採集生活から農耕生活への移行です。
一見、進歩と見えるこの変化が、実は人類に「分断」をもたらすきっかけになったのかもしれません。

喜びも悲しみも分かち合う事の出来た狩猟採集の時代。
かつての狩猟採集社会では、人々は獲物を追い、木の実を採集して暮らしていました。
その日暮らしが基本で、獲れたものはその場で皆で分け合うのが常。
貯蔵という概念も希薄だったため、「私だけのもの」という所有の意識はほとんどありませんでした。

獲物が多ければ皆で喜び、少なければ皆で飢えをしのぐ。
そこには明確な貧富の差や格差は生まれにくく、人々は互いに協力し合い、助け合って生きていました。
現代の私たちが憧れるような「喜びも悲しみも分かち合う」という共同体の精神が、色濃く息づいていた時代だったと言えるでしょう。

そして、農耕は「所有」と「格差」の芽生えをもたらします。
しかし、約1万年前、人類は決定的な変化を迎えます。
それが農耕の開始です。

人々は定住し、穀物を栽培するようになりました。
そして、この穀物を貯蔵するという行為が可能になったことが、すべてを変え始めます。
余剰の食料を貯めておけるようになったことで、「所有」という概念が生まれました。

土地の豊かさや労働力の違いによって、収穫量に差が生まれると、「持てる者」と「持たざる者」という区別が明確になっていきます。
これが、貧富の差、ひいては社会的な格差や差別が生まれる最初の土壌となります。

そうして広がる「疑心暗鬼」と「嫉妬」
富の偏りが生じると、人々の心にはそれまでになかった感情が芽生え始めます。
「なぜあの人だけが豊かなのか?」「自分はこんなに頑張っているのに」

このような比較から、疑いや嫉妬といった感情が広がり、それまでの共生意識は薄れていきます。
個人の利益を優先する傾向が強まり、共に喜び、共に悲しむという、かつての分かち合いの精神は、徐々に希薄になっていったのです。

この事を後戻りできない事を承知しながら、「サピエンス全史」が問いかける人類の選択に改めて考えさせられました。
この人類史における大きな転換点と、それに伴う社会の変化は、フランスの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の著書「サピエンス全史」でも詳しく論じられています。
ハラリ氏は、農耕革命を「史上最大の詐欺」とまで呼び、人類が本当に幸福になったのかどうかを問いかけています。

確かに、農耕は人口を劇的に増やし、文明の発展を促しました。
しかしその一方で、所有の概念を生み出し、格差、差別、そして人々の心に疑心暗鬼や嫉妬といった感情をもたらしたのも事実です。
そして、この仕組みを維持するポイント。
ハラリ氏は、貨幣、国家、法律、そして宗教といった「虚構」(共通の物語や信念)が、大規模な協力と社会の組織化を可能にしたと説いています。
しかし、この「虚構」が、しばしば想像上のヒエラルキーや差別を生み出す要因にもなったと指摘しています。
農耕社会で生まれた所有や階級も、この「虚構」によって支えられていった側面があります。

今、世界ではレアアースや水、必要な資源を求め争いが続いています。
避けて通れない、この歴史的な転換点をどう捉え、現代社会に蔓延る格差や分断の問題をどう解決する。

例えば身近な小さな集団である家族、学校、会社の中ですら、同様の問題があります。
知の巨人たちには、この地平の果てが見えているのでしょうか。

2025年5月26日 (月)

「ひとりぼっち」が、誰かを救う光になる時。「夢の帰る場所」と、分かち合える孤独。

Akatsuki012


1994年玉置浩二さんが、本田美奈子さんと共演した単発ドラマ「夢の帰る場所」。
このドラマの事を時折思い出します。

ドラマのクライマックスで、劇中玉置浩二さんが演じるタクシードライバーが、本田美奈子さん演じるアイドル歌手に語ります。

「だから言ったろ。ジョンレノンが死んでから、みんなひとりぼっちだって…」

ジョン・レノンの死は、多くの人の心に、まるで置き去りにされたような、共通の寂しさを感じさせた事件だったのかもしれません。
その死は、ジョン・レノンが象徴していた平和や愛、連帯といったものが、突然失われたかのような衝撃を世界に与えました。
その喪失感から「みんなひとりぼっち」という感覚が生まれたのは、ある意味自然なことだったのかもしれません。

このセリフの後、マンションから投身自殺を図ります。

ベランダに立ちあがったその時、「違う!今感じているその孤独が多くの人を救う。
同じ思いをしている人で、共感してくれる人、あなたが苦しんだ事で、同じ思いの人を救えるんだ。
膝を抱えて、あなたが現れるのを待っている!」と思ったのです。

涙が止まりませんでした。

孤独を感じることは、辛い体験です。
渦中にあれば、その事以外を考える事、思う事はとても難しいです。
でも、その孤独を通して「同じ思いをしている人がいる」と気づき、「あなたの苦しみが誰かを救う力になる」という希望を見出すことができる。
でも、自分が知り得る以上の、孤独や哀しみを抱えた人がいます。
そんな事は、思い上がりだと思う日もあります。
でも、様々な場面で、フィクションである映画や小説の中でさえ、自らの思いを投影できる場面があります。

人が感じる感情には、それぞれに意味があると私は信じています。
特に痛みや苦しみといった感情は、それが深いほどに、他者との共感を生み出し、繋がりを深めるきっかけになることがあります。
「違う!今感じているその孤独が多くの人を救う」と感じたように、自身の経験が誰かの光になる。
そう信じることは、大きな力になります。
事更にその事を吹聴する必要はないと思います。
必要な時でなければ、そんな話はうっとしいだけです。

「ひとりぼっち」という感情こそが、実は多くの人をつなぐきっかけにもなると感じています。
同じように寂しさや孤独を感じている人がいることを知ることで、人は共感を覚え「自分だけじゃない」という安心感を得ることができます。
このセリフは、一見すると絶望的に聞こえるけれど、その裏には、人々が分かち合える感情の深さを示しているようにも感じられます。

「夢の帰る場所」で流れた劇中歌の「Sacred Love」
このドラマの後に発売された玉置浩二さんのアルバム「Love Song Blue」の、その発売を心待ちにしていました。

ドラマには、既に共感者が現れています。
小さな女の子でした。
その子が抱えていた哀しみ、大人たちの誤解、そして孤独が描かれるシーンは、本当に哀しくなりました。
人の世の終わらない哀しみに、やるせない感情が込み上げてきます。
純粋な子供が、大人の世界の複雑さや不器用さによって傷ついていく姿は、観ている側の心にも深い傷跡を残します。

あのドラマは、単なるフィクションとしてではなく、誰もが経験しうる、または目の当たりにするかもしれない人間の本質的な部分を鋭く描いていたからこそ、あんなにも共感したのだと思います。
「Sacred Love」のメロディーと歌詞が、その哀しみをさらに深く、美しく際立たせていました。
歌が上手い事は、書くだけ野暮です。

私たちの心の中に、「人は皆、多かれ少なかれ孤独や哀しみを抱えている」という普遍的な真実を教えてくれている思いがあります。
そして、だからこそ、互いを理解し、支え合うことの大切さを改めて感じさせてくれます。

2025年5月21日 (水)

私の心の引き出しから「雪の断章」を見つけてきました。

Akatsuki012

5月から猛暑日が報道される中で、季節外れの話です。

雪の断章。
佐々木丸美さんの原作と相米慎二監督、斉藤由貴さん主演の映画いずれも好きです。

映画のシーンにある、北海道の川(空知川かな?)と笠木シズ子の買い物ブギが重なるシーンがあります。
とても胸が苦しくなった覚えがあります。

この映画が公開された時は、学生でした。
同時上映は大林宣彦監督の「姉妹坂」
「さびしんぼう」から富田靖子さんのファンだった私は「姉妹坂」を観に行ったのです。
でも、面白かったのは「雪の断章」でした。

映画「雪の断章」には、サウンドスケッチというアルバムがありました。
サウンドトラックとは少し趣が違います。
でも、映画のストーリーに合わせています。
白いきれいなレコードでした。

Akatsuki058

スキー場に向かう夜行バスの中で、外の景色を見ながら聴いていました。
特に「雪灯りの町」という楽曲の終わりが秀逸で、その次の曲がヒットした「情熱」なのです。
その後の楽曲は雪原を表現するような楽曲が続きます。
映画のストーリーに同じく、本当のしあわせへの道が楽曲でも続きます。

当時、トンネルの出口の灯りが見え始めていた、自分の気持ちと重なる部分を感じていたのです。

その時、北海道へ行ったことはありませんでした。
映画「駅 STATION」やドラマ「北の国から」でインプットされた風景や景色でした。
そこに、この映画の風景が重ねられました。

仕事で札幌へ赴任した時、北海道の各地を仕事で巡る中、そんな景色を探していました。

今日の通勤は「Marvin Gaye」のアルバム「What's going On」でした。
愛に彷徨した「Marvin Gaye」の人生が、私の心の引き出しから「雪の断章」を見つけてきました。

私の心が知っている。

追記

帰宅してテレビをつけたら、NHKで斉藤由貴さんの歌唱している映像が映っていました。

2025年5月20日 (火)

本当に求めているはずの幸福について深く考えることを避けてしまっている。

Akatsuki012

花が咲いていても何も感じず、咲いていることすら気づかない時がありました。
今、花が咲くことをうれしいと思うことがあり、その思いを人と共有することもあります。
見えているものも、見えるものも、時々で変わってゆくと思います。

かつては、読書の中に含まれるビジネス書は7割を占めていました。
事業を成功させた人、新しい仕組みを作り上げた人。
何か自分のビジネスの中で、活用できることがないかと求めて読んでいました。

今、ノウハウよりも、人の心の動きがわかる物語や人の物語の本が7割になりました。
知の巨人たちの、その知の片りんに触れることで、花が咲くことに、花が咲いていることを知ります。
気づかされることがあります。

幸福について考えることはすでに一つの、おそらく最大の、不幸の兆しであるといわれるかもしれない。
健全な胃をもっている者が胃の存在を感じないように、幸福である者は幸福について考えないといわれるであろう。
しかしながら今日の人間ははたして幸福であるために幸福について考えないのであるか。
むしろ我々の時代は人々に幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸なのではあるまいか。
幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか。
しかしながら幸福を知らない者に不幸の何であるかが理解されるであろうか。
今日の人間もあらゆる場合にいわば本能的に幸福を求めているに相違ない。
しかも今日の人間は自意識の過剰に苦しむともいわれている。
そのきわめて自意識的な人間が幸福についてはほとんど考えないのである。
これが現代の精神的状況の性格であり、これが現代人の不幸を特徴付けている。

人生論ノート 幸福について / 三木 清

三木 清の言葉は、現代社会の病理を鋭く抉り出しているように感じます。
およそ80年前の、その時を生きた人の言葉が、あまりに今を相似形として映します。

「幸福について考えることはすでに一つの、おそらく最大の、不幸の兆しである」という冒頭の言葉は、一見すると逆説的ですが、深く頷けます。
本当に満たされている状態であれば、わざわざその状態を意識したり、言葉にしたりする必要はないのかもしれません。

しかし、現代においては、「健全な胃をもっている者が胃の存在を感じないように、幸福である者は幸福について考えない」という自然な状態が失われているのではないか、という問いかけは非常に重いです。
むしろ、多くの人が日々の忙しさや社会のプレッシャーの中で、幸福を感じる余裕すら失ってしまっているのではないでしょうか。
「幸福について考える気力をさえ失わせてしまったほど不幸」という指摘は、現代人の心の疲弊を言い当てているように感じます。

「幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか」という言葉には、現代社会の閉塞感や、他者の幸福を素直に喜べないような空気感が漂っているように感じます。
SNSなどを見ていると、他者のきらびやかな生活が目に飛び込んできますが、それがかえって自身の幸福感を相対的に低下させてしまうこともあるかもしれません。

しかし、その一方で「幸福を知らない者に不幸の何であるかが理解されるであろうか」という問いかけは、幸福を追求することの重要性を改めて教えてくれます。
不幸を知るからこそ幸福を求める、あるいは幸福を知っているからこそ不幸に気づくことができるという、両者の相互的な関係性を示唆しているように思います。

そして、「今日の人間もあらゆる場合にいわば本能的に幸福を求めているに相違ない。しかも今日の人間は自意識の過剰に苦しむともいわれている。そのきわめて自意識的な人間が幸福についてはほとんど考えないのである。これが現代の精神的状況の性格であり、これが現代人の不幸を特徴付けている」という洞察は、まさに今を生きる我々の矛盾を突いていると言えると思うのです。
私たちは常に自己を意識し、他者と比較することで疲弊しているにもかかわらず、本当に求めているはずの幸福について深く考えることを避けてしまっているのかもしれません。

誰もが幸せになりたい事に、何も疑う余地はありません。
自分のその気持ちに気づくことが、初めの一歩なのだと思います。

殺伐とした事件の報道が続く中、三木 清の言葉が心に浮かびました。

三木 清は単に過去の哲学者としてではなく、現代を生きる私たちにとっても重要な示唆を与えてくれる「知の巨人」だと改めて感じます。
その言葉を通して、多くの人が立ち止まって自身の幸福について考え、より良い生き方を見つめ直すきっかけになりはしないだろうかと考えるのです。

文中は敬称略としております。

2025年5月14日 (水)

明日を生きようとする気持ちを取り戻して行く。

Akatsuki012

辛い状況が立ち直り、しあわせになって行く物語は時にとても勇気づけられる事がありますね。
例えば小説で、どこか自分と同じ思いや境遇があり、共感できると物語には感情移入します。

―これから、どうしようか。
気がつけば、友だちとはすっかり疎遠になり、好きな誰かがいるわけでもなく、尊敬する上司や先輩に恵まれたこともない、そんな状況になっていた。
故郷で見守ってくれている父と母には打ち明けられず、私は、いつしかひとりぼっちで人生の脇道にぽつんと佇んでいた。
―どうしようもないな…。

原田マハ / <あの絵>のまえで さざなみ

こんな状況にある登場人物が、明日を生きようとする気持ちを取り戻して行く。
そのどこかに自分を、自分の経験を重ね、自分と同じ部分を見出し共感し、感情移入します。
だから、希望のある結末は、とても勇気づけられるます。

この小説を読んでいる間、私の頭の中ではエルガーの交響曲第1番第3楽章がリピートされていました。
ピッタリだと思っていました。
読後は第4楽章に。

映画「ルックバック」
再生して新しい人生を生き始める。

人は落ち込んだり、元気になったりいそがしいです。
明日を生きようとする気持ちになる事が、強くてやさしいのだと思うのです。

物語を通して、そうした気持ちを共有し、共感することで、私たち自身もまた、明日への活力を得られるのかもしれませんね。

2025年5月13日 (火)

私たち人間にとってかけがえのない宝物。

Akatsuki012

自分の事を大切に出来ない人に、他人を大切にする事は出来ないと思っています。

自分がうれしいと思う事。
自分が楽しいと思う事。
自分が感動した事。

大切な人と、自分じゃない誰かと、その気持ちを共有したくなる。
同じ思いの人がいれば、その気持ちは大きくなります。

自分が哀しい時。
自分が苦しい時。
自分が孤独な時。

どこかで、誰かが同じ気持ちである事を知る事が出来たなら、どんなに勇気づけられるでしょうか。
自分だけじゃない。
誰かと気持ちを分け合う事が出来たら、辛い思いは半減します。

人と人が分かり合う事は、とても大変な事ですよね。
それがたった二人でも、、ふたりだからこそ、難しい事があるのは、誰もが経験のある事です。
これまでの環境や出来事が、その思考に大きく影響します。
分かり合うには、そんな事が助けになる事もあります。

人間関係は試行錯誤の繰り返しです。
いいと思っていたのに、わずかなすれ違いから悪化する事があります。
反対に、ある出来事が関係を改善するきっかけになる事もあります。
苦労の連続です。
どうして、わかってくれないんだ…とか、理解できない…とか、繰り返しです。
好き嫌い、良い悪いなど、相互理解の障害は多くあります。

でも、分かり合えた時の喜びが素晴らしいので、我々はあきらめないのですね。

暴力と恐怖で、分かり合う事は出来ません。
暴力と恐怖の関係は、必ず破綻します。
孤独と哀しみは暴力と恐怖では、癒される事も解消される事もないでしょう。

分かり合う事が出来なければ、その苦しみから解放される事はありません。

喜びや感動を覚えた時、それを大切な人と分かち合いたいという気持ちは、人間関係の根源にある温かい繋がりを求める心の表れでしょう。
共感してくれる人がいれば、喜びはさらに増幅しますよね。

私たちが分かり合うことを諦めないのは、分かり合えた時の喜びが、それまでの苦労を忘れさせるほど素晴らしいからでしょう。
心が通じ合った瞬間の温かさ、安心感は何にも代えがたいものです。

分かり合うことができなければ、心の苦しみから解放されることは難しい。
だからこそ、私たちは不器用ながらも、言葉を尽くし、心を開き、相手を理解しようと努力し続けるのだと思います。
その過程で生まれる繋がりこそが、私たち人間にとってかけがえのない宝物なのですね。

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