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2018年2月

人が生きた場所に連綿と残る思い。

妻と交際をしている頃。
過去の思い出から行きたくない場所があったとの事。
私と交際をする様になってからは、その思いは消えたと話されました。
むしろ、その場所へ私と行き、新しい思い出に塗り替える方が良いとの事でした。

私にもあります。
私は忌むべき場所というより、戒めの場所です。
そこは社会人になって、傲慢で自意識過剰、私が自身を見誤った場所です。
今でも、その近くに行くと、「戒めの地」としてわが身と心を引き締めます。

昨日まで仕事で金沢におりました。
ここにも多くの思い出がありますが、仕事で訪れている時に、いちいち感傷に浸る事はありません。

しかし、朝移動のために在来線のホームで電車を待っている時の事。
向かいのホームの電車を見て、少しいくつかの思いがよぎりました。
電車には詳しくないのでわかりませんが、ずいぶん長いこと現役だろうな…と思う車両でした。

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そんな事からの連想です。
メンデルスゾーンの交響曲第3番イ短調作品56「スコットランド」を思い出しました。

弱冠20歳のメンデルスゾーンがバッハの《マタイ受難曲》蘇演という歴史的快挙を成しとげたのは、1829年3月のこと。
その1ケ月後、彼は初めてのイギリス旅行に出発する。
しばしのロンドン滞在の後、7月末に彼はスコットランドに赴き、悲運の女王メアリ・ステュアートにゆかりの城を訪れた。
「深い黄昏の中、私達は今日、女王メアリが生き、そして愛した宮殴に行きました。
…そばの礼拝堂は今は屋根がなく、芝や蔦がはびこっていました。
そこの壊れた祭壇で、メアリはスコットランドの女王として戴冠したのです。
何もかもが壊れ、朽ち果てており、明るい空の光が射し込んでいます。
今日そこで、私はスコツトランド交響曲の冒頭を見つけました。」
彼は16小節分の楽想を書き留めた。

メンデルスゾーン交響曲第3番イ短調作品56「スコットランド」
指揮:クルト・マズア
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
CD楽曲解説より引用 1988年10月吉成 順

偉大な音楽家と自分を同列にする気は毛頭ありませんが、人が生きた場所に連綿と残る思いがあるのだと考えるのです。
人はそういう事を感じるのだと思うのです。
いい事ばかりじゃないかもしれないけれど、悪いことばかりじゃない。

故郷は様々な思いがあり、とても素晴らしい場所であったりします。
風景はもちろん、空気や言葉。
料理や食べ物。
人は永遠ではないので、その場所で変わらずに続きものに思いをはせるのではないでしょうか。

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この交響曲大好きです。
第1楽章は本当に悠久の歴史を回顧するようにちょっと寂しげに始まります。
でも、第4楽章のフィナーレは賛歌の様な気がするのです。

人が生きることはきっと…。

心通じること、生きること。

谷川俊太郎さんの「いきる」はあまりにも有名で、教科書にも掲載され教材になっています。
特に合唱にたずさわる方には、この「いきる」や他の谷川俊太郎さんの作品はお馴染みだと思います。
私の蔵書(そんな立派なわけではありませんが‥)にも、谷川俊太郎さんの「いきる」があります。
「いきる」を筆頭に、それを職業とするわけでない様々な人の思いが綴られています。

学生の頃、この「いきる」が教材として使用された時、とても退屈極まりないものでした。
今よりさらに未熟な感受性では理解ができませんでした。
少し齢を重ね、日常が連続ではない事。
諸行無常のわずか一旦でも知る事。
そうして様々な物事の捉え方は「いきる」がまったく理解できない頃からは変化しました。

素敵な人との出逢い。
美しい音楽に感動する事。
美味しいものを食べて、しあわせな気持ちになる事。
哀しい事も相変わらずやっぱりありますが、人生が豊かになったと感じています。

「君の膵臓をたべたい」
この書籍を購入して読んだ後、アスペルガーの二男に読むように勧めました。
通学時、電車の中で読んだそうですが、本人は今ひとつピンとこなかった模様です。
それは私が谷川俊太郎さんの「いきる」を初めて読んだ時の私と、あまり変わりがないのでしょう。

読後に書評をいくつか読みましたが、酷評が随分とありました。
ごもっともな指摘も大変多く、楽しんで読む事が出来た私は改めて未熟さを認識しました。
でも、得かなと‥思います。

私はハッとさせられました。
というか、言葉を得たと思いました。

「生きるってのはね」
「……………」
「きっと誰かと心を通わせること。そのものを指して、生きるって呼ぶんだよ」
……ああ、そうか。
僕はそれに気づいて、鳥肌が立った。
彼女の存在そのものと言える言葉が、視線や声、彼女の意思の熱、命の振動となって、僕の魂を揺らした気がした。
「誰かを認める、誰かを好きになる、誰かを嫌いになる、誰かと一緒にいて楽しい、誰かと一緒にいたら鬱陶しい、誰かと手を繋ぐ、誰かとハグをする、誰かとすれ違う。それが、生きる。自分たった一人じゃ、自分がいるって分からない。誰かを好きなのに誰かを嫌いな私、誰かと一緒にいて楽しいのに誰かと一緒にいて鬱陶しいと思う私、そういう人と私の関係が、他の人じゃない、私が生きてるってことだと思う。私の心があるのは、皆がいるから、私の体があるのは、皆が触ってくれるから。そうして形成された私は、今、生きてる。まだ、ここに生きてる。だから人が生きてることには意味があるんだよ。自分で選んで、君も私も、今ここで生きてるみたいに」


君の膵臓をたべたい / 住野よる

谷川俊太郎さんの「いきる」にもある、どこか普遍的な事を感じるのです。
人が生きることの普遍的な事を感じるのです。

この原作が映画化された事を後に知りました。
Amazonプライム・ビデオの見たい候補に入れておきましたが、先日他の書籍を買いにTSUTAYAに立ち寄った際に、DVDをレンタルして見ました。

原作を損なわない素晴らしい出来で、付け加えられたストーリーもとてもよかったです。
先ほど引用した言葉も映画の中で使われています。

この主人公を演じる浜辺美波さんがとても可愛い。
若ければ夢中になってしまったでしょう。
すっかりファンになりましたが‥。
引用した言葉も劇中に台詞で彼女が話します。
それは本当に名シーンです。

この小説にもう一つ、私がとても印象に残る言葉があります。

「違うよ。偶然じゃない。私達は、皆、自分で選んでここに来たの。君と私がクラスが一緒だったのも、あの日病院にいたのも、偶然じゃない。運命なんかでもない。君が今までしてきた選択と、私が今までしてきた選択が、私達を会わせたの。私達は、自分の意思で出会ったんだよ」

君の膵臓をたべたい / 住野よる

人生は肯定的に捉えられる事ばかりではないけれど、すぐには出来なくても、どこかで自分を肯定できる日が来る事。
それが、その後をしあわせに生きること事が出来る近道じゃないか‥と思います。

タイトルにかけた構成もシビれました。
この映画の最後にMr.Childrenのhimawariが流れます。
先日、街で同じMr.Childrenの「つよがり」が流れていました。
フト思い出し、帰宅した後に家で聴きました。
これが主題歌でもよかったかな‥なんて思いました。

原作も映画もとてもよかった。
とても得した気分でした。

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