浄められた夜(浄夜)
赦すという事がどれだけ大変な事かと思います。
赦すという事は、その前提に何かに心が囚われている事になります。
だから、赦すとは問われている事からの、心の解放であると私は思うのです。
リヒャルト・デーメルの詩をベースにした、シェーンベルクの「浄められた夜(浄夜)」。
私はこの楽曲が大好きです。
リヒャルト・デーメルの詩はこんな内容です。
勝手な要約をします。
互いを思う1組のカップル。
しかし女性が満たされぬ思いを抱え、行きずりの男の子を身籠ってしまいます。
女性はその事を告白し、男性は女性を赦し、その子を自分達の子供として育てる事とします。
私が所有しているCDもクリムトの「接吻」をジャケット使っています。
「接吻」がこの楽曲のモチーフにぴったりです。
この前の記事にも関連しますが、人はひとつの感情や要素で生きているのではありません。
そう思えばこそ、「接吻」の構図の様に、崖の淵で互いを確認する男女の危うさを思うのです。
リヒャルト・デーメルの詩に登場する男性も、様々な思いが交錯していると考えるのが普通です。
他人を赦す事も大変です。
自分を赦す事はもっと大変だと思います。
今も、自分を赦せず苦しんでいる人がたくさんいます。
自分を責め続けている人がいます。
誰にでもあります。
私にもあります。
自分を赦すという事、その事にも気づけず、苦しんでいる人もいます。
赦すという事がわからずに、今を生きる、その事がとても苦しむ原因となっている人もいます。
シェーンベルクの「浄められた夜(浄夜)」は約30分の演奏時間です。
私は後半約15分が特に好きです。
夜、時折星空を眺めながら歩いて帰る時、ヘッドフォンで街中(正確には山中)に響き渡る様な感覚で聴きながら帰ります。
私が聴いているのはオーケストレーションされた作品です。
美しいメロディと弦楽が心にしみます。
大切な人を思う、きょうこの日に。
ひとりでも、ひとつの事でも、囚われる苦しみや哀しみから解放される事を祈ります。
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