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2017年12月

浄められた夜(浄夜)

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赦すという事がどれだけ大変な事かと思います。
赦すという事は、その前提に何かに心が囚われている事になります。
だから、赦すとは問われている事からの、心の解放であると私は思うのです。

リヒャルト・デーメルの詩をベースにした、シェーンベルクの「浄められた夜(浄夜)」。
私はこの楽曲が大好きです。

リヒャルト・デーメルの詩はこんな内容です。
勝手な要約をします。

互いを思う1組のカップル。
しかし女性が満たされぬ思いを抱え、行きずりの男の子を身籠ってしまいます。
女性はその事を告白し、男性は女性を赦し、その子を自分達の子供として育てる事とします。

私が所有しているCDもクリムトの「接吻」をジャケット使っています。
「接吻」がこの楽曲のモチーフにぴったりです。

この前の記事にも関連しますが、人はひとつの感情や要素で生きているのではありません。
そう思えばこそ、「接吻」の構図の様に、崖の淵で互いを確認する男女の危うさを思うのです。
リヒャルト・デーメルの詩に登場する男性も、様々な思いが交錯していると考えるのが普通です。

他人を赦す事も大変です。
自分を赦す事はもっと大変だと思います。
今も、自分を赦せず苦しんでいる人がたくさんいます。
自分を責め続けている人がいます。

誰にでもあります。
私にもあります。
自分を赦すという事、その事にも気づけず、苦しんでいる人もいます。
赦すという事がわからずに、今を生きる、その事がとても苦しむ原因となっている人もいます。

シェーンベルクの「浄められた夜(浄夜)」は約30分の演奏時間です。
私は後半約15分が特に好きです。
夜、時折星空を眺めながら歩いて帰る時、ヘッドフォンで街中(正確には山中)に響き渡る様な感覚で聴きながら帰ります。
私が聴いているのはオーケストレーションされた作品です。

美しいメロディと弦楽が心にしみます。
大切な人を思う、きょうこの日に。
ひとりでも、ひとつの事でも、囚われる苦しみや哀しみから解放される事を祈ります。

人は誰でも様々な感情があり、毎日その感情と折り合いをつけて生きている

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コップが倒れ、テーブに水が広がった。

有名な牛丼チェーン店での事です。
まだ幼い表情が残る高校生と思しきアルバイトの彼が、慌ててテーブルの水を拭いています。
片手には注文した品物を持っています。

二男は「大丈夫、大丈夫」と言っていますが、その彼は必死の形相です。

長男はホスピタリティの高いコーヒーチェーンでアルバイトをしています。
そこでの教育から、後でこんな事を言っていました。
「テーブルから拭くのはダメ。まずは、お客さんの服の状態を確認する事が先」

正解ですね。

私はその彼を怒る気持ちなど微塵もありませんでした。
それは、その彼が本当に大変な事をしてしまったと感じていたと思うからです。
耳を真っ赤にしながら「すみません、すみません」と繰り返し謝っています。

数あるアルバイトの中から、どうしてこのアルバイトを選んだのだろう。
時給が高いアルバイトが必要な事情があるのだろうか。
きっと、アルバイトは初めてだろうな。
そんな事を思っていたのです。

別の日、少々お高いお店で昼食をとりました。
メニューの内容とお店の感じと著しく違いを感じ、とても残念な気持ちになりました。

そこでアンケートを書いて下さいと言われ、思うままにいい事、少々辛辣な事、残念な思いを書きました。
次回も来店されますか?との質問は、もう来ないに○をしました。
責任者と思しき人は、髪を振り乱しながら忙しそうにしていました。

帰宅してから、ひどく後悔しました。

そのお店は開店して間なく、オペレーションが上手く行っていなかったかもしれません。
開店前に教育訓練がされていない事が問題と指摘する人もいるでしょう。
物品の購入でもサービスでも、対価に対し受益者が対価に見合わないと感じる差異は、ストレスのもとになる事は間違いないでしょう。

スーパーなどで時々目にする店長へ手紙。
こんな商品を入荷して欲しい要望はふ~んという感じです。
でも、お店の姿勢や特定の誰かを誹謗中傷する内容を見るにつけ、殺伐とした気持ちになる事がありました。

それなのに、答えがひどいアンケートを平気で書きます。
牛丼チェーンの彼に思っていた思いなど、それを書いている時は微塵もありません。

牛丼チェーンとの比較に、自分の気持ちの中で区別があったと思います。
こうして、この事を書きながら、改めて自分の隠れている気持ちにも気づきます。

人は誰でも様々な感情があり、毎日その感情と折り合いをつけて生きています。
単純なひとつの感情や要素にまとまる事などありません。
人が生み出す芸術の中に、数えきれない多くの思いがあります。
その思いが要素として結晶し、いい作品が生み出されると考えます。

ひどく、疲れます。

それでも、喜びがあります。
楽しみを作り出します。
明日を生きようと思います。
人は誰でも様々な感情があり、毎日その感情と折り合いをつけて生きていると思うからです。
自分だけじゃないからね。

木々の成長から感じる余韻

引っ越しをしてから、今の楽しみが庭つくり。
今般はオーナーさんが、庭の木を切り倒しても、新しく植えても好きにして下さいとの事。
いろいろと考えています。

現在は約2年空家だった事もあり、すごい雑草と庭木は荒れています。
入居前にひと通り剪定と除草してもらったのですが、それは表面だけ。
雑草の根は広く強く広範囲で、春になったら一斉に出てきそうです。
そんなで今、ゴボウみたいな根っこと格闘しています。

ここにシマネトリコ。
そこにはヤマボウシ。
向こう側にはライラック。
玄関までの階段にはモッコウバラ。
和室から見える庭にはイロハモミジかな。

図書館から庭つくりの本を複数借りてきて研究しています。
完成図を想像するのが楽しいです。
これから、それぞれの木々が成長し、様々な姿になって行く事が楽しみです。

こういう気持ちを持てる様になったのは、何時頃からだろうと思います。
子供の頃は実家の庭の草むしりだけで、ブーブー言いながらやっていました。
のび太君に負けないぐらい、ブーブー言いながらです。

そんな時に、いつもなら待ち合わせしなくても自然と集まる友達が、私が来ないので家まで迎えに来ます。
「野球やろうぜ」
「今、行けねぇよ
「いつ頃なら来れる?」
「わかんない
「ちぇっ
…ヒーッ、俺だって草むしりなんて嫌だよ
私にはドラえもんはいません。

映画も、テレビも、即物的な事が増えました。
自分の感性ではなく、例えばジェットコースターがそうですが、乗れば全てわかる…そいうものです。
刺激が瞬時に刺さります。

映画はわかりやすくなりました。
以前は、結末をいちいち説明したり、あえて表現する事なく終わる映画が多数ありました。
特にヨーロッパの映画はそう感じていました。
ここから先は、見ていたあなたの自由な創造で結末を感じて下さい…てな具合です。

ハリウッドの映画はやっぱり、スッキリするストーリーが多いと思います。
勧善懲悪、ハッピーエンドにしあわせのへの予感。
これはこれで大好きです。
デートでは、辛気臭い映画は後の予定がつまらなくなります。

30年近く前ですが「汚れなき悪戯」という映画を深夜のテレビで見た事があります。
ストーリーはウィキペディアを参照した下さい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9A%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%8D%E6%82%AA%E6%88%AF

この映画の結末は、子供がしあわせだったのか、そうではなかったのかと評論しているのを書籍で読んだ記憶があります(書籍名は思い出せません)。
当時私は、しあわせだと思ったのです。
しかし、今は自分にも子供がいるので、その時と同じ気持ちだろうかと問えば、その時とは違います。

庭つくりは、時間が必要です。
木々は半年で2年分成長は出来ません。
それを楽しみに、待てるようになったのだと思います。

生物の宿命で行けば、日々死に近づいており、時間は貴重になります。
一見、時間の浪費と思える、木々の成長する時間が楽しみになるのです。

元々日本人は俳句にしても、庭つくりにしても、自分と違う誰かが、様々な思いを持つように表現する事が得意だったと思います。
俳句。
小説の行間を読む。
庭の形。
厳しい制限の中で、様々な思いを込めた表現をする手法を持っています。

少年の頃は草野球の結果が大事。
思いっきり遊んで、腹が減って疲れて眠る。
また、即物的な楽しみも知り、楽しいという事を誰かと共有する。
この事が大事だと思います。

でも、例えばふと聴いた音楽が心の断片とつながり、ジワジワと心にしみてくる。
記憶の断片に心が揺れ動く。
俳句や小説の行間に庭の形に心が動く。
そんな気持ちにも気づくようになる。

即物的な事の反対を、余韻を知るとするならば、そういう気持ちが歳と共に醸成されるのでしょうか。
人は変わるのですね。

荒野の様な庭が、美しくなって行くと信じています。
いろいろな事と同じですね。
とても楽しみです。

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