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視線を合わせる

先日、少し遅い時間に帰宅する時の事です。
乗車したところが、優先席でした。
電車は発車をする少し前であり、当たり前ですが空は無く、優先席の前に立ちつり革を持ちました。

優先席には、遅い時間でしたが親子3人とサラリーマンと思しき方がひとり。
親子はお父さんと小学生3年生ぐらいのお兄ちゃんに、まだ2歳になったばかりの男の子。
その幼い男の子はお父さんの膝の上です。
3人用のシートに4人です。

幼い男の子は大騒ぎで、お父さんとお兄ちゃんがおとなしくする様にあやしています。
幼いお兄ちゃんも、電車の中で大騒ぎしているのは具合が悪いと思っている様です。
しかし、その幼い男の子に状況を鑑みる事は出来ません。
幼いお兄ちゃんも大変だなと思いました。

私達は自分が子供であった事を、しばしば忘れる事があります。
自分が子供の頃に、

何に喜んでいたのか…
何が怖い事であったか…
何がさびしい事であったか…
何が安心できる事であった…
何が出来ない事であったか…

いつしか、ひとりで大人になったと錯覚する事があります。
生まれた直後は誰もが、自分で食事をする、という生きてゆく事に必要な事が出来ません。

その時、周りの乗客で、その様子を不快に思っている人はいない様でした。
あの年頃の幼い子供なら、周りの状況より自分の快不快が優先になる事は、大方の人が理解が出来ます。
やがて、しばらくして幼い子供はお父さんに抱かれて眠ってしまいました。
その後しばらくして、幼いお兄ちゃんもお父さんに寄りかかって眠ってしまいました。

視線を合わせる。

その事の重要性を思います。
経験で違う世界を見る事が可能になる事があります。
例えば、壁を前にして苦しんでいる人がいる。
自分が同じ苦しみを経験して乗り越えた壁であれば、その向こうの世界を理解する事が出来ます。
しかし、壁を前にして苦しんでいる人には、ただ大きな壁が立ちふさがっているだけであり、その先の世界は垣間見る事すら出来ません。

その苦しみを経験し、壁を乗り越えた人であれば、ちょうどテニスの審判の様に、高い壁(ネット)を挟んで、その両方を見る事ができる場所にいるのと同じだと思うのです。
物事を俯瞰する立場で、その問題を見る事が出来ます。
壁に果敢に挑戦している人が、実は乗り越えるための最後の取っ手に、既に手をかけているんだ…と本人がわからなくても、俯瞰している人にはわかります。

そして、自分も壁に当たります。
困難な道に、先人の知恵やこれまでの経験を動員して当たります。
そんな時に先輩や、同じ環境にいる仲間、まったく違う世界の人が視線を合わせて解決を目指してくれる時や助言をしてくれる時、そんな壁を乗り越える事が出来た事があります。
現在進行形で進む問題も、解決に向かえると思う時、壁に挑む勇気が湧いてきます。
たくさんの人が知恵や知識を、視線をあわせて、その壁を破り、乗り越える道筋のヒントを与えてくれます。

視線を合わせる。

お兄ちゃん、小さな心で周りに気を使わなくてもいいよ。
大人もみんな君の弟と同じ、いつかの子供であり、君と同じ子供だったのだから。
少しの間、お父さんの隣で眠るのがいいね。

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20代の頃、仕事でよく行った茨城県が、大きな災害に見舞われています。
仕事でお世話になった方々は幸いにして心配な事はありませんでした。

報道で見る交差点やお店、建物はきっと、いつか立ち寄り、通り過ぎた場所であり、記憶にある地名でした。
お見舞い申し上げると共に、一日も早い復旧をお祈りします。

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