1歳という奇跡の日に想う、命を寿ぐということ。
七五三という行事は、かつて子どもが過酷な環境を生き抜いた(サバイバルした)ことを祝うものであり、それが現代とは比較にならないほど困難なことであった歴史を私たちに思い起こさせます。
歴史上でいかに偉大な業績を成し遂げた人物であっても、病などによって幼い我が子を失う悲劇に見舞われ、なす術もなかったことが数多く語り継がれています。
ご先祖のお墓に目を向ければ、墓石に「童」という文字が刻まれたものを見かけることがあります。
それは、幼くしてこの世を去らねばならなかった子どもたちのお墓です。
生きたかったはずなのに、生きられなかった。
幼い命がそれほどまでに儚く消えていった時代が、確かにありました。
だからこそ、この世に生まれ、今を生きているということ自体が、どれほどの奇跡であり、素晴らしいことでしょうか。
「1歳」という日。
生まれ来ることがもう奇跡ですが、その最初の節目を、私たちは心から祝福します。
まだ言葉のわからない子どもであっても、周りの人たちが自分を見て心から喜んでくれている空気を感じ取れば、それだけで大きな安心感に包まれるものです。
お祝いの本質とは、その命が今日ここにあることを、ただ愛おしみ、感謝することに他なりません。
それなのに、現代の流行や悪ノリの中で、ケーキに顔を押し付けられ、戸惑いと不安の中に置き去りにされる子どもがいます。
周りの大人たちは大笑いして盛り上がっているけれど、主役であるはずの本人は、呼吸を塞がれるような恐怖と孤独の中にいる。何度も繰り返される理不尽な行為に、子どもがどれほど怯えていても、大人はカメラを向けて笑っている。
生きていることを、1歳という日を迎えられたことを、心から喜び、慈しむべき大切な日に、なぜそのような主役を置き去りにした消費的な笑いが生まれてしまうのでしょうか。
大人にとっての一瞬の「映え」や「娯楽」のために、子どもの尊厳が軽んじられている姿に、深い違和感と悲しみを覚えざるを得ません。
「生きたくても生きられなかった命」の重みと、過去から繋がる「今ここに生きている奇跡」に対する敬意。
それらがもし胸の中にあれば、子どもの不安をよそに笑うような真似は決してできないはずです。
幼い命の尊さを心から寿(ことほ)ぐとはどういうことか。
私たちは今一度、その原点にある優しさと、命への畏敬の念を思い起こす必要があるのではないでしょうか。











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