もしも励ましになるのなら、いくらでも応援の記事を書こう。
数日前に書いて記事にある通りですが、仕事上の失敗で二男は結構なダメージを受けていました。
自分との比較は意味がありませんが、私は失敗が多く、もう数えきれないのが現実です。
覚えきれないというか、忘れてしまったが近いです。
しかし、その時の痛い教訓が活きている事もあります。
二男曰くは、1週間に二度も怒られる(改善の指摘を受ける)は、ショックな様です。
指摘を受けた、その事が自分でも認識がなかった模様です。
小学生の頃から、鼻歌が止まらない。
自分では歌っている認識がない。
ひとり言が、止まらない。
同じ職場の人は、話かけられているのか、ひとり言なのか困惑する。
この事を職場の別の方から本社宛に問い合わせがあり、本人が指摘されました。
アスペルガーが故の独特な事もあり、本人から初めてカウンセリングへ行こうかと考えているとの話がありました。
自分の気づかない事を教えてくれる誰かがいる。
客観的な指摘をしてくれる人がいる。
話を真剣に聞いてくれる人がいる。
そういう環境があるのは、大切であり、恵まれている事だと思います。
肉親は心配で、話が詰問調になったり、命令口調となる事があります。
日本経済新聞の1面コラム「春秋(2023年10月21日)」に、掲載された内容です。
20年ほど前、あるフリースクールを取材したことがある。ダンスを踊りながら覚える九九。絵の具まみれになって描く美術。よくあるのとはちょっと違う、でも子供が中心の教室だった。「どこから来たの」「僕らの記事を書くの」。子供たちからは質問攻めにあった。
子供らしい生き生きとした感じが、伝わってきます。
安心して、様々な事に取り組む環境があるのだと思います。
▼印象に残ったのが、社会の偏見を薄めたいと奔走する大人の姿だ。積極的に情報発信したり、行政との相談を繰り返したり。公教育の否定ではないんです、別の居場所が必要なだけ。そう懸命に訴え続けていた。多様な学びの場を認める教育機会確保法の施行は2017年。それは長く地道な努力の積み重ねの上にあるのだ。
人は学び、変わり、強くなって行きますよね
そして、強さは他人へのやさしさに変わります。
誰でもが社会の一員となって行く過程で、その関わり方は違います。
ミサイルのように急角度で飛び立てる人。
戦闘機のように早い人。
プロペラ機のように、ゆっくり、緩い角度で飛び立つ人。
▼滋賀県東近江市長がフリースクールを巡り、国家の根幹を崩しかねないと発言したという。「大半の善良な市民は嫌がる子供に無理してでも義務教育を受けさせようとしている」とも。そんな市民が大半だとも、善良だとも寡聞にして知らぬ。意見表明は自由だ。ただ時計が随分前に止まっていないかは気にした方がいい。
市長さんが幼い時と、決定的に違う事がひとつ。
昔と比較して、地域のコミュニティを保つ事が、とても難しくなっている事だと思います。
記憶にある事ですが、中学生の時、下校途中でケンカとなりました。
場所は畳屋さんの店の前。
大ゲンカとなりました。
その時、畳屋の親父が店から飛び出してきて「こんなところで、ケンカするんじゃねぇ」と怒鳴られました。
「ケンカするな」ではなく、「ここで、ケンカするな」です。
今なら、直ちに警察に通報されます。
他人の子供も、自分の子供も、地域の子供としての意識は極めて低くなっています。
何より、自分がそうです。
そして、狭い世界に親も閉じ込める事で、親も行き詰まります。
それが、虐待につながったりします。
地域のコミュニティで、いろんな事を自然と肩代わりしたり、担ったり、その世界が欠落しています。
▼子供に留守番をさせたら虐待、という目をむく条例案が飛び出した県議会もあった。公の立場にある人々が、安易に「親の責任」を言いつのる。それが当の子供たちをもどれほど傷つけていることか。学校へ行くのがつらい君たち、無理にがんばることはない。もしも励ましになるのなら、いくらでも応援の記事を書こう。
最後の二文節は、ジャーナリズムへの期待と気持ちが減退する自分の気持ちの中に、仄かに灯りがともりました。
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