日記・コラム・つぶやき

2024年9月 1日 (日)

おじちゃんは、おばちゃんを愛してたんや!

Akatsuki208

薬師丸ひろ子さんの「Wの悲劇」と、原田知世さんの「天国に一番近い島」は同時上映でした。
二本立て…懐かしい響きですね。

「Wの悲劇」は力作。
物語もドラマチックで、見応えがありました。

しかし、私は「天国に一番近い島」が真打です。
「Wの悲劇」が先でしたが、立ち上がって帰る人は殆どいなかっと思います。

この映画で何より印象に残ったのは、原田知世さんではなく、乙羽信子さんでした。
演技は秀逸であり、それ故にとても印象に残っているのです。
乙羽信子さんの役柄は、太平洋戦争で夫を亡くした未亡人役でした。
映画では南太平洋の夫が戦死した海へ、献花に行くシーンです。
その海域で「お国の貴金属供出にも出さなかった」指輪を「あなたにもらったものだから、あなたに返します。私だったと思って下さい」と海に投げます。
そこで、同乗している女性が問いかけます。

教えて下さい。
39年も経って、それでも忘れないっていうのはなんなんですか?

それはこんなお婆さんが言うと恥ずかしいんですが、愛ですわ。
それとも自分自身の誇りかしら。
誰かを好きになった。
その事への人間としての誇りね。
うまく言えないけれど、愛ってそういうもんじゃないかしら。
誰かを愛した。
その時の自分の心だけは決して忘れちゃいけないわね。
愛って結局は自分のための物語ね。

映画「天国にいちばん近い島」より

当時、私はこのシーンで涙が止まりませんでした。
誰かを愛するという事の崇高さ、愛し、愛される事が、人の誇りとして、人が生き続ける理由になる事に感動しました。
愛される事も、愛し続ける事ができる事も羨ましく、素晴らしいと思いました。
高校生に何がわかる…というところですが、本当に私は感動したのです。
周りに泣いている人がいるかどうかは、確認もしませんでしたが…。
多分…いないですよね。

先日、日本経済新聞の夕刊コラム「プロムナード」を読んで、この事を思い出しました。

その日の海は荒れていた。叔母は元気な声を絞りだすように、生前の叔父について話を始めた。

「おじちゃんはなあ、私がご飯を持っていかないと食べなかったんや。
他の家族が持っていってもダメで、私の時だけ食べたんや。
おじちゃんは、おばちゃんを愛してたんや!」。
そう言ったあと、うわーんと豪快に泣いた。

愛してた。その一言に、私は完全に心が射抜かれた。

おばちゃん、最高だね。
いまそう言えるおばちゃんも、愛がある二人の人生も最高だね、と私は言った。

川内有緒 荒れた海で愛を叫ぶ
2024年8月31日 日本経済新聞

グッとこらえました。

2024年8月21日 (水)

ソウルフード 自らの身体を、今あるこの時まで作ってきた食事。

Akatsuki208

自らの身体を、今あるこの時まで作ってきた食事に、思いをはせる瞬間があります。
それがソウルフードの、ひとつの側面である思いです。

義理の親父は昭和11年生まれの新潟出身です。
中学校を卒業後に上京し、苦労しながら独立して事業を確立させました。

少し前ですが、そんな親父と新潟県へ行った事がありました。
その際、(義理の親父からすると)孫の希望もあり、新潟県立歴史博物館(https://nbz.or.jp/)に立ち寄りました。

親父からすると、展示物は少し前の日々の生活であり、それを珍しく観る気持ちにはならないとの事でした。
そりゃ、そうだわなと思いながらも、「子供は興味深く観ているから」と私は苦笑いしながら言いました。

本年、親父は新型コロナに罹患し、治りましたが体調の回復が思わしくなく、一緒には出掛けられませんでした。

車で走行中に二男が、おいしそうだとロードサイドで店を見つけました。
FARM FRONT SEKI NOEN(https://farmfront.jp/) です。
お昼時であった事もあり、店外に行列です。
幸い駐車場が確保出来たので、待つ事としました。

40分程待って店内に。
とても清潔で、店を囲む田園風景と相まって素晴らしいです。

土鍋炊き塩むすびセットを注文。
塩おにぎり(2個)とみそ汁に漬物と海苔が1枚。

Akatsuki210

おいしい。

塩むすびだから、主役のお米がおいしい事は勿論、みそ汁がまた格別。
何で出汁をとっているのか、知りたいぐらいです。
これには妻も唸っていました。

親父はいませんでしたが、40分前後も待つ。
おにぎり2個に1,000円以上を払って食べる。
理解は出来ないでしょう。

博物館の風景に同じく、自らの歴史の一部であり、体験した事です。
都会からの客が、ありがたがって食べる。
もしかしたら、奇異に映る場面があるかもしれません。

でも、一緒だったらおいしく食べた気がします。
それは、幼い頃から食べ、自らの身体を作ってきたものです。
どこかに、うれしい思い、辛い思いが隠れているかもしれないですが、今も郷土の米を実家から取り寄せ、日々食べています。

今は別宅で、日々ジャンクフード付けの私には、とてつもないごちそうです。
仕事で、生産者の方々が自家用で食べるとっておきを、頂戴する事があります。
そのおいしい事。

子供もいましたが、これがごちそうである事は、まだ理解出来ないでしょう。
「肉はないの?」「おかずはないの?」「ごはんだけ?」
子供の頃の私なら、そう思います。

自らの身体を、今あるこの時まで作ってきた食事に、思いをはせる瞬間があります。
それがソウルフードの、ひとつの側面である思いです。

2024年8月17日 (土)

もう一つの光。

Akatsuki209 

Linkin Parkの楽曲は、アルバム「Hybrid Theory」「Meteora」「Minutes To Midnight」に心奪われた事から始まりでした。
それも取引先の社長と音楽談義となり、Linkin Parkを紹介してもらったのです。
歳と共にクラッシック音楽を聴く機会が増えていました。
ところが、しっかりとハマってしまったのです。

「In Pieces」「The Little Things Give You Away」はハートを鷲掴みされました。

アルバムは発売され、その都度で評論家やファンからの賛否両論はありましたが、私はどれも好きです。
自らの音楽を極めて行く…そんな道(書や武道の様に)を求める姿勢が好きで、そこから生み出された楽曲やアルバムは聴き応えがありました。

このブログの記事でも、楽曲についていくつか記事を書きました。
そんな中で、どうしても、この楽曲への思いを記事にしたくて、チャレンジしました。

自分がひとりぼっちだ…と思うのは、誰もいない夜明け前の海にいるよりも、たくさんの人がいる場面の事が多い気がします。

なんとなく、今そこにいる仲間や人々の会話に入れないとか、ついて行けないとか。
周りにはたくさん人がいるのに、誰も自分の存在に気づいていない、気にしていないとか。
あの人の周りには、いつもたくさんの人がいるのに、どうして自分はいつもひとりなんだろうと考える時とか。

どうせ、自分の哀しも、苦しみも、孤独もわかってくれない。
そう思う時…。

Who cares if one more light goes out
In the sky of a million stars
It flickers, flickers
Who cares when someone's time runs out
If a moment is all we are
Or quicker, quicker
Who cares if one more light goes out

Well I do

もうひとつの灯りが消えたところで誰が気にするものか
空には百万も星があって
チカチカ瞬いているんだから
誰かの時間が尽きたって、誰も気にしないさ
俺たちが刹那な存在でしかないなら
いや、もっと早い、もっと短い
もうひとつ灯りが消えたって気にするやつはいるか

あぁ、俺がそうだよ

Linkin park / One More Light
出典アルバム「One More Light」より対訳 染谷和美

たくさんの人がいる中で、こんなちっぽけで、孤独な自分が消えたって、誰も気にする人などいない。
自分の存在なんて、そんなものだ…。
誰が、自分の存在を気にするか!
そう思う日が誰にでもあるだろう。

そんな時、そばにいて「俺は気にするぜ」
そう言ってもらえたら、どれだけ気持ちが和らぐだろう。

*文章中は敬称略としております。

2024年8月13日 (火)

見えるものを使って、見えないものを志向する芸術。

Akatsuki209

何故なら、美術とは、見えるものを使って、見えないものを志向する芸術だからだ。

(武蔵野美術大学教授)

2024年8月2日日本経済新聞「プロムナード」 新見隆 アートの本義

いつも興味深く読んでいる、日本経済新聞のこのコラムに、今日もまた唸りました。

作品を作る側は、自らの意思をその表現物に投影し、かたちあるもを創造します。
それは、洞窟に人類が住んでいる頃から行われている作業で、遺跡の中で作った人の意思と、今を生きる我々が製作を行う動機に大きな違いがないと思います。
人が生き続けているその時代に、必ず流れる、流れている、人が生きていた、生きている、その命脈です。

自らの思いを、心を投影し作品とする。
作品を観て、その思いを感じ取った人は、感じ取れた人は、感動するのだと思います。
それが、時として作者の意図とは異なる誤解であったとしてもです。
作る側と受ける側が同じでは、作る側に新しい発見はありません。

これまで生きてきた人生が違うのです。
これまで感じてきた事が違うのです。

同じである事がないです。
同じであるはずがないです。

洋楽の英語は全部理解出来ない事が殆どです。
でも、メロディだけでなく、心が動く事があります。
歌い方であったり、楽器の使い方であったり。

何故なら、美術とは、見えるものを使って、見えないものを志向する芸術だからだ。

この言葉に同意し、唸ってしまいます。

2024年8月12日 (月)

余分なものをそぎ落とし、シンプルになるほどに迫力増すものがあります。

Akatsuki208

余分なものをそぎ落とし、シンプルになるほどに迫力増すものがあります。

Linkin Parkのアルバム「A Thousand Suns」に収められている「The Messenger」
このアルバムが、従前のLinkin Parkのアルバムと大きく異なるので、賛否両論。
私は好きなアルバムです。

そのアルバムに含まれている楽曲「The Messenger」
余分なものをそぎ落とし、シンプルになるほどに迫力増すものがあります。
その典型的な楽曲だと思います。

When you suffered it all
And your spirit is breaking
You're growing desperate from the the fight
Remeber your love
And you always will be
This melody wii always bring
You right back home

When life Leaves us blind
Love, keeps us kind
When life Leaves us blind
Love, keeps us kind
It keeps us kind

十分苦しんできて
心がくじけそうなとき
戦いからの絶望がどんどん大きくなる
忘れるな、お前は愛されている、これからもずっとそうだ
このメロディがちゃんと家に連れ戻してくれる

人生に光を奪われても
愛があればやさしくいられる
人生に光を奪われても
愛があればやさしくいられる
やさしいままでいられる

出典:Linkin Park アルバム「A THOUSAND SUNS」より「THE MESSNGER」
対訳:網田有紀子
*敬称略

近頃、よく聴く楽曲は思い返すと、こういう勇気を与えてくれる楽曲が多くなった気がします。
Linkin Parkの楽曲は、苦しみや哀しみから生まれたと思われる楽曲が多く、その中に希望が見える楽曲があると、やさしさと強さを感じるのです。
同じように近頃よく聴くようになった「U2」
同じ動機と気持ちで新たにシビレています。

胃痛と闘う私の応援歌です。

The Messenger - Linkin Park (A Thousands Suns)

2024年8月11日 (日)

鑑賞した人、それぞれの思いでいいですね。

Akatsuki208

鑑賞した人、それぞれの思いでいいですね。

この世に発表された作品は、様々な評価を受けます。
今の日本では、その評価を自由に発言出来る。
この事はいい事だなと思います。
でもやっぱり、公共の福祉に反しない範囲は大切です。

「公共の福祉」という言葉を、中学3年生の公民の授業で学習した記憶があります。
日本は自由な発言や表現が可能だけれど、「公共の福祉」に反しない事が大切。
学習した頃は「公共の福祉」とは、その自由を阻害する要因にならないとか、誰かが傷つかないとか、そんな記憶があります。
授業中にオナラをした人がいて、「臭すぎて、公共の福祉に反する」と誰かが言って、笑った覚えがあります。

映画「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」をサブスクで観ました。
公開当時、泣けるがプロモーションに多用されていたと思います。
特攻に絡めて、誰かが亡くなる事で、涙するとか、感動するとか、ちょっと残念な気がしていました。
年の候だけ、書籍や様々な作品で事実に触れ、記念館で現物を見て、その時の所感があります。
齢を重ねるにつれ、誰かが、特に若者が亡くなる事が、とても辛い事です。
だから、死が、誰かが亡くなる事が、それが生きている事の実感につながるなら、それはさびしい事だと思うのです。

映画を観てから、作品に対する印象が変わりました。
現代からタイムスリップする人が、当時の事を当時の人々に「なぜ、そうしなければならないのか」と問います。
当時を生きた人々が、矛盾とわだかまりを抱えながら、様々な思いを抱えながら、折り合いをつけてその時を生きていたと思います。
これは、日本で今を生きる我々が考えなくてはならない命題だと思います。

この映画を観たと妻に話したところ、前述の様な「冷ややかなお話でしたよ」と言われてしましました。
素直に印象が変わった事を伝えました。
この記事の源泉はそこです。

この映画を観る観点で、様々な評価があると思います。
史実に忠実なのか、セットなど時代考証に誤りはないか、演技は、台詞は、ストーリーは?
公共の福祉に反しない範囲で、様々な評価があっていいと思います。
タイムスリップで出会った男女が恋に落ちる…という単純な映画ではないと私は感じたのです。
今を生きる我々に問いかけてくる命題を、映画を観て感じたのです。

鑑賞した人、それぞれの思いでいいですね。

知覧の記念館を訪れた事があります。
ビジネスの合間で、取引先の方と一緒に訪問しました。
その方は取引先の代表者で、女性でした。

記念館の様々な資料を見て、大粒の涙をこぼしていました。
当時、自身のお子さんと同じ年齢、あるいはそれよりも若い人たちが残した手紙に、母としても悲しいと言っていました。

あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。

2024年8月10日 (土)

誰も自分の事知らない世界へ、行ってみたい。

Akatsuki208

誰も自分の事知らない世界へ、行ってみたい。

この感情は、人間関係に疲れていたり、自らの実力を本当に試してみたいと思う時に呟く言葉だと思います。

昨今は柔軟な対応が示されますが、1990年からサラリーマンとなった自分には、転勤は当たり前でした。
同じ営業部にいた後輩が、転勤となる時の事です。
その後輩は、公私ともに賑やかな人物でした。

彼の転勤に際し、当時の上司が言った事が記憶にあります。
「この転勤の機会に、自分自身をモデルチェンジしてバージョンアップしなさい。行く先の人は、君の事を知らないのだから」

これは確かに機会だなと思いました。

昨今、恋人同士が不幸にして別れても、相手の動向を知る手段が残される事があります。
東京に住んでいたおじさん世代は、卒業すれば相手の事はわからなくなるし、住む場所が変われば行方知れずです。
ふられて未練があったとしても、わからなくなってしまえば、心の整理も楽で次へ進めます。
次はもっといい人が待っていると、根拠のない希望も生まれる事もあります。

しかし、今は気になれば確認できる環境がある。
これは様々な意味で、辛い事があるなと私は考えてしまいます。

心に湧き上がる疑問、後悔、思い出等々、繰り返し考えてしまう事があります。
過去は変える事が出来ません。
答えが出ない事がたくさんありますが、答えが出ない事も答えだとわかるのは、ひと回りしてからです。

松任谷由実さんの楽曲に「幸せはあなたへの復讐」という楽曲があります。
タイトルの通りですが、そこには以前との比較があります。
それがエネルギーになるなら、一時はそのエネルギーを借りてもいいと思います。
でも、比較の範囲は前の人の事がついて回るので、歌詞の通りです。

いつかあの思い出が
ほかの記憶と同じ色になってゆくまで

幸せはあなたへの復讐 / 松任谷由実

いつかの思い出を忘れてしまう、そんな幸せがきっと待っています。
その時、あの悲しみは、このしあわせのためのレッスンだった。
きっとそう思えると思います。

誰も自分の事知らない世界へ、行ってみたい。
それよりも、早く断ち切ってしまう方がいい。
別れた人が、しあわせになっていても、たまたま不幸でも、もう心を砕く必要はないのだから。

2024年8月 9日 (金)

人の不幸は蜜の味。

Akatsuki208

人の不幸は蜜の味。

義理の母親は、近所の情報にとても詳しい。
〇〇さんの息子が離婚したとか…。
〇〇さんが、〇〇で野菜を作っている…。
〇〇さんが、〇〇病院に入っていった…。

聞かされる私には、関心が湧かない話だ。
先ず、〇〇さんがわからない。
次に離婚も、野菜を作る事も、病院に入っていった事も、それぞれに理由や気の毒な事情もあると思うが、その本当がわからない。

義理の母親には、日常生活の範囲と関係がある事であり、重要な事だ。
我が家の桜の木が、電線に触れそうなので、今度剪定しなければならないと私が考えている。
この事を私が話して義理の母親が示す関心の程度と、義理の母親の話に私が示す関心の程度は、あまりかわらないだろう。

会社では日々様々な事が起きる。
人間が集まれば、共感による団結よりも、感情が優先する諍いによる分裂の方が圧倒的に多いのだろう。
これがまた、後者の方が楽しいときている。

起きた問題は、その重大性や将来への禍根、緊急性によりその解決手段は異なる。
当事者が自ら、起きている問題の事に言及しない限り、問題の解決にあたる会社幹部や担当者はその事に言及しない。
しかし、問題の本質を見極めるためや、解決策の協議を関係者外に聞こえない様にしていても、その頻度や時間、集まる人間の責任の範囲や人数で、何事が起きている事は容易に伝わってしまう。

これは人によっては、とても楽しい話になる。

どうしてなのか、どうやってそんな事が伝わるのか、わからないが内容が漏れる。
憶測、予測など様々織り交ぜ、さながら和食、イタリアン、フレンチと幕の内弁当を超える盛りだくさんである。
問題の本質が見えなくなるぐらい。
おかず増量50%だけど、値段据え置きセールだ。

先日、諍いを発端とする問題が発生した。
その問題発生はハラスメント案件であり、解決にあたる事を宣言した。
宣言をしないと、解決の為に図った措置が、更に憶測を呼ぶ事となる。
当該拠点の人は想像がつく事であるが、他の拠点は何の事か詳細は先ずわからない。

ところが、その内容は憶測を交えて、あっという間に全拠点へ広がった。
問題が発生した当該拠点では、そういう話が大好きな人物がいる。
嬉々として他拠点にその事を電話で伝える姿が目撃され、またそれを行っている事を伝えるてくれる人がいる。

暇なのか…と思う。

ほどなくして、問題は解決を見た。
しかし、その余波は各拠点へ広がった。

先日、拠点の責任者が集まる会議の後、当該拠点でないところの責任者と話になった。
それは、その問題の解決に関する余波の事だ。
問題解決の回答(適当な表現かな?)とその後に起こった事が、他拠点では不信感と恐怖になっているとの事。
かかる状況から、その詳細な経過を全社に説明した方が良いとの事だった。

組織には公式な組織と非公式な組織がどうしても存在する。
会社は権限と責任を明確にして組織されるが、非公式組織はその中で、年長であるとか経験年数などで存在する。
例えば、課長は東京から来るが、現場を取り仕切る班長は地元出身で、その班長が事実上現場を仕切っているとかだ。
だからといって、意思を通すために、その非公式組織を利用する事を安易に考えるとロクな事がない。
利用しているつもりで、利用されている事は多々ある。
相手の方が現場を知り、握っているのだから、その部分は敵わない。
映画でも、ドラマでも、よくある場面だ。

現場での指導力や管轄能力は認めても、組織を無視して頼ってはならない。
それは、その能力を認める認めないという事とは、別の扱いである。
会社として、その能力は最大限活かして欲しいのだ。

全社に詳細に説明する…という要望に応える事は出来ない。
それは当該者が、再生する機会を削ぐ方にエネルギーが向くと判断するからだ。
事の次第に関心はあっても、その人がこれから再生し、新たにスタートする事には関心を示さないからだ。
本当に関心を示して欲しいのは、本人が再生して行く、その先の未来だ。

話のあった拠点責任者には、なぜ他の人がその事を知っていると聞いた。
すると、そんな事はみんな知っていますとの返答だった。

非公式組織が活きている。

何を知っている?と問えば、それは新たな問題を生む。
内容は和食、イタリアン、フレンチと幕の内弁当を超え、下世話な内容が小鉢で付けられた内容だ。
美しくもなく、食欲が失せる。

問い合わせを行った責任者へは、経過と事情を説明した。
全社へ説明した方が良いという話は、しなくなった。

先日も義理の母親からは、同じ話を織り交ぜ、ご近所の情報、噂話が話された。
同じ話を繰り返すのは、年と共に自分でも否定が出来ない事だ。
妻は義理の母親に言った。

「そんな些細な話を、旦那に聞かせないで。人の事を面白おかしく言っても楽しくないです」

2024年8月 8日 (木)

人間関係の難しさ。

Akatsuki208

人は分かり合えると私は思うが、現実の世界ではなかなか難しい。
今、世界で起こっている争いが、果てしなく続いている時に、この事が説得力を持つアイデアは思い当たらない。

仕事でも、特に利害の絡む仕事だからこそ、様々な思惑が多方面からあり、それを一致させるのは非常に難しい。
乱暴な話であるが、仕事が出来上がるという事は、この利害の調整が妥協や打算で、落ち着きどころを見出す事だ。

人間関係も様々な事がある。
同じと思っていた事が、違う事もある。
積み重なった思いが、ある違いを見出した瞬間に不満となって爆発する事もある。

分かり合えないと思った瞬間に、停止する人間関係もある。
それを動かそうと、その関係や過去の事を清算して進めようとしても、完全に切り替えるのは出来ない。
困難な事にさしかかると、清算したはずの事が一瞬してよみがえって、分かり合えない地点に戻ってしまう。

誰かに死ぬほど愛されているなら、誰かが殺したいほど憎んでいるかもしれない。

神様は人間をつくる時、忘れる…という機能を持たせてくれた。
この世は無常であり、同じ瞬間は一度としてないと仏様は教えてくれる。

でも、嫌だなと思っていた人から傷つけられれば、ショックだし腹も立つ。
分かり合っていると思う人からなら、なおさらにショックだ。

だから、自分を守るためにも、人は分かり合う事が困難なんだと思う。
そう思って、自分を守る事の方が良いと思う事がある。

それは難しい事であり、気持ちから外そうとしても、気になる事となる。
簡単に割り切れるなら、世界から胃炎が消える。
誰にも地位や立場など、社会的な背景がある。

人は分かり合う事が困難だ。

だから、理解のため、わかってもらうため、互いの共通認識を作るため、様々な作業をする。
ところが、感情的な問題が横たわっているのが常なので、それを行う気力がわかない事も多々ある。
別にあの人にわかってもらわなくてもいい…とかね。

そう思う人とも、コミュニケーションをしなければならないのが、人間の世界だ。
でも、壊れた関係を急いで修復する必要はない。
毎日コミュニケーションをしなければならないとしても、その事にとらわれると自分が苦しくなる。
そんなふうに心がけていないと、心がけていても、その人の気配を感じられるところなら、嫌な世界だ。

分かり合えない人もいる…と自分に言い聞かせて事態を乗り越える時も必要。
そう、解決するのではなく、乗り越えるだ。

逡巡するので、まとまりのない文章が長くなる。

ところが、分かり合えたと思う瞬間はうれしい。
生きているよろこびの、きっといちばん大きな事だろう。
だから人は、その瞬間に向けて努力してしまうのが性らしい。

誰もがそれぞれの事情を抱えながら、今を生きている。

2024年8月 7日 (水)

おじいちゃん、ゴメンな。

Akatsuki208

おじいちゃん、ゴメンな。

幼い頃、母親の実家である高知県には、夏休みになると東京から新幹線に連絡船と土讃本線を乗り継ぎ出かけていました。
7歳の事からひとりで。
10歳ぐらいからは、3つ年違いの弟も一緒に。

甘やかしてくれる祖父母とうるさい事を言わない両親が近くにいないので、バカンスです。
おおよそ1カ月程滞在していました。

大学生になると、アルバイトなどがあり、小学生の頃に様には滞在出来ません。
でも、たまに訪れていました。

そんあ時分のある日、外出から祖父母の家に帰って来たところ、おじいちゃんとすれ違いました。
おじいちゃんから「ビールを買うお金を貸してくれ」と言われ、ふたつ返事でいいよと貸しました。

ところが、その晩に「孫から酒を買うお金を借りるとは何事だ」とおばあちゃんとおふくろに、おじいちゃんはこっぴどく叱られました。
当時は祖父母の家計は、おばちゃんが管理しているので、子供の買い食いよろしく、お金を持っていないおじいちゃんが、ビールを飲んだ後がある。
不自然極まりない事です。

この事がずーっと、心に引っかかっていました。
どうせ買うなら、箱買いしてくればよかった。
みんなで一杯やろうと買ってくればよかった。
肝心なところで、気が利ないなぁ俺は…と思っていました。

幼い頃から、本当に可愛がってくれたおじいちゃんに、申し訳ない思いをさせた。
そんな事を思っていました。

高知での夏休みは、甲子園の金属バットの音から始まりました。
おじいちゃんは、県大会の予選から全て観戦していました。
朝目が覚めると、おじいちゃんが背を丸くして、テレビの前に座り、そのテレビから金属バットの音が聴こえていました。
その後ろで、おばあちゃんが作ってくれた朝食を食べながら、今日は何して、どこへ行って遊ぶと考えていました。
おじいちゃんの大きな背中が、背中越しのテレビと金属バットの音を合わせて、ひとつの風景の切り取りとして残っています。

おじいちゃんは帝国海軍で、非常に厳しい人でした。
初孫の私は例外でした。
その時の事は、ひと言も話した事がありませんでした。

妻の前で、そんな後悔がある事を、ふとした時に話しました。

すると、妻は「おじいちゃん、お酒を禁止されていたんじゃないの」と言いました。
「だからあなたに、そんなお願いをしたのではないの」と言いました。

そういえばおじいちゃんは油絵を描いていましたが、書もやっていました。
身体を壊して入院してから、医師から酒をやめるように言われていました。
部屋の机近くに「〇〇(おじいちゃんの名前)酒を断つ 〇月〇日」と書でしたためていました。
それを思い出しました。

私の後悔は軽くなりました。
おじいちゃん、ゴメンな。

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