文化・芸術

2022年10月23日 (日)

ゴッホの生涯とブラームスピアノ協奏曲第2番第2楽章。

Akatsuki142

ブラームスのピアノ協奏曲は大好きで、聴く頻度も多いです。
そのドラマチックなメロディに魅了されます。

少し前ですが、角川武蔵野ミュージアムで「ファン・ゴッホ ー僕には世界がこう見えるー」を観ました。
上演というのが、マッチした表現なのかもしれません。

そこで、ブラームスのピアノ協奏曲第2番の第2楽章が利用されます。
それはゴッホの生涯と重なる様で、なぜかしっくりくるのです。

ゴッホとブラームスがどこで交錯しているのか…という命題はさておき、今般の企画展での選択です。

映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」を観た時の思いです。
その映画の中で、こんなゴッホの台詞があります。

もしかしたら神は…時を間違えたのだと。
未来の人々のために神は、僕を画家にした。
人生は種まきの時で、収穫の時ではないという。
映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」より
(一部抜粋)

このセリフはイエスの生涯と重ねて、ゴッホが話をします。
死後、本人が話していた通りの事となる事は今の歴史が証明しています。

こんな言葉を、こんな意思を持つほどに達観したのか。
その思いが、本人を支えていたのか。
哀しみの果てに、何を見据えていたのだろう。

到底わからない思いに、思いを巡らす週末でした。

Akatsuki143

そこで、ブラームスのピアノ協奏曲第2番の第2楽章。
それはゴッホの生涯と重なる様で、なぜかしっくりくるのです。

人生は種まきの時で、収穫の時ではないという。

2022年9月19日 (月)

寂寥と孤独。

Akatsuki135

孤独は人間を狂わせる強い要素だと思います。

その人生で、誰かを好きになる時に、その狂気を垣間見せたていた逸話の残るベリオーズ。
ベリーズの作品「幻想交響曲 作品14」の「第3楽章 野の風景」の寂寥感に様々な逸話を重ねます。

私が所蔵しているCDはチョン・ミュンフン指揮 パリ・バスティーユ管弦楽団です。
その解説に記載されています。

夏の夕べ。
羊飼いの笛の二重奏。
そよ風が梢を吹く。
希望が芸術家の心を明るくする。
しかし”もし彼女がそむいたら”という痛々しい予感。
羊飼いのひとりが笛を吹くが、応えはしない。
沈む太陽。
遠雷、孤独、寂寞。
(以上は作者による注釈の大意)

狂気にも似た感情に裏打ちされ、寂寥感が増幅される気がします。
孤独は人間を狂わせる強い要素だなと思います。

本人が望まない執拗な執着や愛情を寄せられた側は、迷惑極まりないですが…。
夕暮れに、この楽曲を聴き、考えました。

映画「ジョーカー」を観た後、同じ気持ちになった事も思い出しました。

2022年7月20日 (水)

日本経済新聞掲載記事「臨床美術で高まる幸福度」に唸る私。

akatsuki119.jpeg

 

本日(2022年07月20日)の日本経済新聞 経済教室面にある「私見卓見」のコラムを通勤電車で読み、朝から唸っていました。

それは、芸術を通じて従業員は勿論、市井の人を含む心の健康をはぐくむ、その力に書かれていました。
凸版印刷副社長 大久保伸一さんが「臨床美術で高まる幸福度」とのタイトルで掲載されています。

アート作品を自ら制作するという体験は、ありのままの自分を受け入れ、自己肯定感を持ち、幸福感を得ることにつながる。
このプログラムはオンライン体験でもほぼ同じ効果を得られたことが興味深い。
アートの力によって他者の個性を肯定・尊重し、多様性を認めることにもつながる。

凸版印刷副社長 大久保伸一 / 臨床美術で高まる幸福度
日本経済新聞 2022年07月20日付け朝刊より引用

この前の記事にも共通する、自らの思いを表現する事です。
そして、その力(効用)です(効用という言葉が的確だと思うのですが、大学時代に学んだ「限界効用逓減の法則」のイメージが強く、とてもエコノミックな気がします。)

人類は既に約4万年前から、洞窟の中に絵を残しています。
その本来の意図は計り知れないです。
しかし、表現せずにはいられない。

表現したものを通じて、通じ合える。
わかり合える。
同じ思いの人がいる。
全部でなくても、理解してもらえる。
わかってくれる人がいる。
共感してくれる人がいる。

TikTokでも、YouTubeでも、web上でも、約4万年前の洞窟でも。
自分はひとりじゃない。
そう思える事がどれだけ、人にとって必要な事であるか。
芸術は孤独では生きられない、人の生み出した、人のみが持つ能力である事。

記事を読み、そんな事を改めて思いました。

2022年7月10日 (日)

空に星があるように。

akatsuki118.jpeg

幼い頃に雑誌「ムー」を戦慄しながら読んでいる時です。
時はノストラダムスの大予言で、世界がフィーバーしていました。

その記事に記憶がある事。
なぜ、ノストラダムスを始め、当時はエドガワ・ケーシーなどが予言を出来るのかという仕組みの説明がありました。

我々は視点の位置が、身長やその時の状態で異なります。
例えば、一本道の向こう真ん中に岩があるのは認識できる。
しかし、その道の先に山があれば、その山の向こうはわからない。

ところが予言者は、この山よりも先を見通す位置で確認が出来る。
つまり我々とは、その先まで見通す力が異なっているとの説明でした。

なんだか、とても納得しました。

幼い子が、いわれなき折檻やネグレクトなどで亡くなるニュースを知るに、とても辛くなります。
どんなに寂しかっただろう、どんなにお腹がすいていただろう。
世界は狭く、他の誰に頼る事も出来ない絶望を思うに、とても辛くなります。

30代の後半に体を壊し、1カ月ほど会社を休んだ事があります。
それは急性肝炎でした。
復帰してずいぶん時間が経過した後の事です。
中島らもさんの「今夜、全てのバーで」を読みました。

肝硬変寸前で病院に担ぎ込まれる物語の主人公に、治療の過程など実地でなぞる様な内容に興味深く読んだ覚えがあります。
その物語の中で、若年の患者が亡くなる事に対し、医師が自身の思いを吐露する場面があります。

小学生には、壁の棚に何がのかっているなんて見えないじゃないか。
(中略)
一センチのびてゆくことにものが見えだして、風景の本当の意味がわかってくるんだ。
(中略)
なのになんで子供のうちに死ななくちゃならんのだ。
つまらない勉強ばかりさせられて、噓っぱちの行儀や礼儀を教えられて。
大人にならずに死ぬなんて、つまらんじゃないか。
せめて恋人を抱いて、もうこのまま死んでもかまわないっていうような夜があって。
天の一番高い所から、この世を見おろすような一夜があって。
死ぬならそれからでいいじゃないか。

今夜、すべてのバーで / 中島らも

今、あしたのジョー2を観るのが楽しみで、毎日少しずつ観ています。
物語はクライマックスで、過去には気付かなかった、新しい気づきもあります。
しかし、終わりに向けて、なんだか気持ちがざわざわしています。
若い頃に観た時とは、明らかに違います。

後半、主題歌は荒木一郎さんの「MIDNIGHT BLUES」に代わっています。
荒木一郎さんと言えば「空に星があるように」です。

小さな夢は 消えました
淋しく 淋しく 星を見つめ
ひとりで ひとりで 涙にぬれる

空に星があるように / 荒木一郎

次は、さびしい思いをしなくていいところに。
いつも、安心できるところに。
いつも、ぬくもりがある場所に。
いつも、愛される場所に。

2022年4月18日 (月)

人生は種まきの時で、収穫の時ではないという。

akatsuki107.jpeg

原田マハさんの「たゆたえども沈まず」を読んでからの事。
およそ20年前以上前に出かけたゴッホ展で、自分は何を見ていたんだろうと考えました。
この著作をスタートに、原田マハさんの作品はたくさん読みました。

ゴッホ展で買った大きな展覧会の概要本は、開かれぬまま本棚の大きな段に鎮座していました。
「たゆたえども沈まず」を読んでから、ゴッホ作「星月夜」のアートポスターを手に入れようと考えています。
札幌の別宅には大きな白い壁があったのですが、今の部屋にはありません。
先ずは、そこからです。

そんな前段があり、映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」を観ました。
その映画の中で、こんなゴッホの台詞があります。

もしかしたら神は…時を間違えたのだと。
未来の人々のために神は、僕を画家にした。
人生は種まきの時で、収穫の時ではないという。

映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」より
(一部抜粋)

このセリフはイエスの生涯と重ねて、ゴッホが話をします。
死後、本人が話していた通りの事となる事は今の歴史が証明しています。

こんな言葉を、こんな意思を持つほどに達観したのか。
その思いが、本人を支えていたのか。
哀しみの果てに、何を見据えていたのだろう。

到底わからない思いに、思いを巡らす週末でした。

2022年4月17日 (日)

ジミー大西さんの花いちもんめ。

akatsuki105.JPG

 

徹子の部屋にジミー大西さんが出演した話を妻から聞きました。

ジミー大西さんは幼い頃しばらく、言葉が不自由だったとの事。
私にも幼い頃、言葉が不自由だった遊び仲間がいました。
その事は特別な事ではなかった記憶があります。

我々にはわからない事もありましたが、本人がお母さんに話をすると伝わっていました。
彼のお母さんが耳を傾けていた姿勢と背伸びしながら話しかけている彼の姿。
その光景が記憶にあります。

そんなジミー大西さんを、花いちもんめになると必ず指名してくれる女の子がいたとの事。
ジミー大西さんは、そんな彼女に好意を抱きます。

長いお休みの後、急に彼女が教室へ来なくなります。
やがて、その彼女が使っていた机に花が飾られました。
彼女は亡くなったのです。

ジミー大西さんは、その花の手入れを欠かさなかったそうです。
そして、ある日担任の先生から、ジミー大西さんは話をされます。
それは、そろそろ席替えをするので、その花を片付けるとの事でした。

そして、行われた席替え。
ジミー大西さんは、その彼女が使っていた机と椅子になります。
その机に手を入れると、机の中に手に触れるものがあります。

そこには、彼女のハンカチが残っていました。

その話を夕食の席で聞き、翌日の支度をするために自室へ入りました。
ふと、その話の余韻にメロディーがよみがえりました。

シューベルトのピアノソナタ第21番 第1楽章冒頭のメロディーです。

それはまるで、彼女がジミー大西さんを微笑みながら見守っている様なのです。
第1楽章の第1主題の最初の1音から、そう思うのです。
音楽を聴くには遅い時間でしたが、ヴォリュームを絞りCDを聴きました。

たまらなく、せつなくなりました。

シューベルトが完成させた最後のピアノソナタです。

完成をさせた2ヵ月後に、シューベルトは亡くなります。
この頃、シューベルトの健康は相当に損なわれていたとの話が残っています。

全曲を通じて、その美しさは私が表現するまでもありません。

際立っています。

生きる事の哀しさや、苦しさ、辛さ。

そして、喜びも。
人生を肯定的に捉え、すべての思いを内包しその素晴らしさを、やさしく歌い上げる。

ジミー大西さんの心に生き続ける、彼女の思いと重なる気がするのです。