夏休みと読書感想文、そして宮沢賢治「よだかの星」が問いかけるもの。
朝の通勤中、集団登校の小学生の姿が見えなくなりました。
そう、夏休みですね。
今は読書がとても好きですが、小学生の頃は決して好きな方ではありませんでした。
特に、夏休みの宿題の読書感想文。
あれは本当に嫌でしたね。
我が家では、母の厳しい「検閲」が入ります。
去年と同じ本で感想文を書こうものなら、即座に却下。
大急ぎで違う本を斜め読みしては、できた感想文はあらすじばかり。
最後には「おもしろかたです」と句読点も忘れた一言で終わり。
当然、「これはあらすじだ」と書き直しを命じられます。
敵もさるもの引っ搔くもの。
小学生のつたないごまかしは、母には通用しませんでした。
そんな思い出が蘇ると共に、ふと思い出したのが宮沢賢治の「よだかの星」です。
小学生の頃は、その意味もよく理解できず、ただ「よたかがかわいそうだと思いました」という感想しか抱けませんでした。
先日、何十年かぶりに読み直しました。
大人になって読み返す作品は、やはり感じ方が全く異なります。
「よだかの星」の主人公である夜鷹は、容姿を嘲笑され、名前を否定され、声が気味が悪いと言われる。
なに一つ自分で選択した結果ではないのに、誰からも疎まれる存在です。
自らを否定され続け、自己肯定感など木っ端みじん。
何にもなれない自分に、深い絶望感がのしかかります。
■自分の居場所はない
孤独が絶望を呼び寄せ、その絶望が、さらに自らを否定していく。
まるで、今の世相を映し出しているようで、人間は変わっていないのか、あるいは進歩していないのかと問いかけられているような感覚に陥りました。
その背景には「恐怖」があるのかもしれません。
自らと異なるものを受け入れず否定し、排除しようとする。
これはまさに、いじめの構図そのものです。
存在価値を見出せず苦しむ夜鷹は、最後には自ら星になることを望みます。
この結末を「希望」と捉えるのは、私にはあまりにも辛すぎます。
「他者からの承認を得られなくても、自らの意思で高みを目指し、本当に光るものになりたい」
それは、いつも自分のことを思い出してほしいという、孤独と絶望の裏返しであると感じてなりません。
夜鷹が星になったことで、他の生き物たちに明るさをもたらしたという描写は、確かに「救い」となっているのかもしれません。
それでも、やはり辛すぎる物語です。
■「理解できないもの」への反応
私たち人間には、誰しも自分で理解できなかったり、受け入れられなかったりするものを、否定したり、遠ざけてしまったりすることがあります。
例えば、そのような人を「いじめる」ことで、相手が自分と同じように絶望するのを見て安心し、ようやく「理解のためのトラック」のスタートラインに立つことができる、と錯覚するのかもしれません。
しかし、そのスタートラインはあまりにも歪んでいます。
そして、そこで得られる安心は長くは続きません。
同じことを繰り返しても、真の安心は得られず、いつ自分が遠ざけられ、疎まれる存在になるかもしれないという根源的な恐怖は拭えないままです。
いつまで経っても、本当のスタートラインには立てないのです。
…と、ついつい熱くなって読書感想文を書いてしまいましたね。
でも、あらすじだけではないから、これでOKですよね!




最近のコメント