彼の本当の哀しみをわかっていたのは、あの人だったかもしれない。
彼の本当の哀しみをわかっていたのは、あの人だったかもしれない。
三島由紀夫の小説「金閣寺」
読んだのはずいぶん前ですが、金閣寺に火をつける主人公が、精神的に追い込まれていく様は迫力でした。
迫力というより、怖い。
迫力でしたと書くのは、それが実際にあった事件である事を、当時は知らなかった事によります。
金閣寺が消失した事は知っていても、その背景は知らなかったのです。
先日、NHKのアナザーストーリーで、実際の金閣寺焼失の事件を取り扱っていました。
犯人の林養賢の生い立ち、実際の事件経過とその後の家族の事。
林養賢の人物像を語る、幼馴染や周辺の人々。
そして、林養賢の師としての、金閣寺住職の慈海の事。
金閣寺の再建に取りかかる慈海住職。
托鉢から始め、その姿に人々が動き出す。
林養賢は心を病み、病気でこの世を去ります。
この間、慈海住職は林養賢に差入を続けます。
林養賢が亡くなった後、事件後に投身自殺した林養賢の母親と共に戒名をつけ金額時で供養します。
放火焼失事件の事を聞かれても、「私の不徳です」と、それ以上の事は語りません。
苦しんでいた、林養賢のその哀しみを、金閣寺を放火焼失させるという事実まで、気づいてやる事が出来なかった。
その事実があって、初めて弟子であった林養賢の本当の哀しみと苦しみを知った。
彼の本当の哀しみをわかっていたのは、あの人だったかもしれない。
遠藤周作の「イエスの生涯」
この中、ユダの記述が多く書かれています。
ユダと言えば、裏切り者の象徴。
しかし、「イエスの生涯」の中では、イエスの弟子の中で、唯一師の本当の苦しみを理解していたのは、ユダだったとあります。
なぜ、嘲りを受け、誤解と裏切りの中で、イエスは死なねばならなかったのか。
その本当の理由を知ったユダは、生きてはいられなかった。
彼の本当の哀しみをわかっていたのは、あの人だったかもしれない。
人の世の、繰り返されるこの哀しみに終わりがあるのだろうか。
絶望しそうになる、その時、それを終わらそうとしているのも、この世の人である事。
その事に、勇気が湧いてきます。
*文中敬称略としております。
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