書籍・雑誌

だけど 愛すべきあの人に 結局何かも癒されている

取引先のラウンジ(応接者が待つ素敵なラウンジがある羨ましい取引先なんですよ)で、FMか有線放送なのかわかりませんが、流れていた曲に心奪われてしまいました。
コーヒーを運んできてくれた女性とは、顔見知りである事もあり「今流れているこの曲知ってる?」と聞いたのです。
彼女は年齢を聞いた事はありませんが、まちがいなく20代。
「えっ、ケンシロウさん(本当は苗字です)知らないんですか?浜崎あゆみの"M"ですよ」
「浜崎あゆみ…知ってるよcoldsweats01、あゆだろ、あゆ」なんてお答え。
曲名をメモしながら、勿論エイベックスの看板って事ぐらいは知っているし、おじさんの記憶はTBSドラマ「未成年」に出演していた可愛い女の子…程度の印象だったのです。

早速、その場所での仕事を終えると、近くにあるショップに立ち寄り「M」の入っているアルバム「BALLADS」を買いました。
レンタカーでの移動だったので、早速聞きました。
移動しながら、全曲をまず聞きました。
やっぱりどこかで耳にして、メロディーだけ記憶にある曲もいくつかありました。
それからは「M」だけ1曲をリピート。

これ名曲。
特に途中パイプオルガンと同じ音(たぶん本物ではないと思うのだけど…)を使ってのアレンジはドラマチック。
また、曲の構成も工夫されていて素晴らしい。
繰り返し何度聞いてもいい。

楽曲は本人が作っているのですね。
彼女が根強い人気を保っているのが、わかる気がします。

MARIA 愛すべき人がいて
時に 強い孤独を感じ
だけど 愛すべきあの人に
結局何もかも満たされる

MARIA 愛すべき人がいて
時に 深く深いキズを負い
だけど 愛すべきあの人に
結局何かも癒されている

M / 浜崎あゆみ

特にこの歌詞は、愛するが故の苦しみ。
とても的確な表現と思いました。
吉本ばななさんの「うたかた」の冒頭にこんな表現があります。

たとえるならそれは、海の底だ。
白い砂地の潮の流れに揺られて、すわったまま私は澄んだ水に透けるはるかな空の青に見とれている。
そこではなにもかもが、悲しいくらい、等しい。
目を閉じて走っても、全く違う所を目指したつもりでも、気持ちはいつの間にかくり返しそこへたどり着く。
そこはいつもとても静かで、いつも彼の面影に満ちているので、私は目を覚ますことなく、ずっと、そこでそのまま眠っていたくなる。

うたかた / 吉本ばなな

人を好きになると、喜びも勿論なのだけれど、気持ちがどうどうめぐりをくり返し、疑心暗鬼になったり、勝手に苦しんだりします。
でも、その度に新しい発見があったりして、またくり返し恋をする。
さすが、吉本ばななさんの表現はピッタリです。

誰かを好きになった、その時の自分の気持ちだけは忘れてはいけませんよね。
今週末は「BALLAD」をたっぷりと。
でもこれ、ずいぶん前に発売されたアルバムなんですね。
秋の夜長にぴったりな一品です。

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未完の事

先日、妻の実家で義理の親父が見ていたCSのTBSチャンネルを横から見ていました。
放映していたのはドラマ「世界の中心で、愛をさけぶ」の最終回でした。
原作は読みましたが、映画もドラマも見た事がありませんでした。

ドラマの中にもありましたが、大切な人の死を乗り越えるは並大抵の事ではありませんよね。
時間と共に衝撃は薄らいでも、まるで深い海によどむものの様に哀しみは沈みます。
事実を受け入れて状況は理解をしても、心が納得しないのです。

やがてもう一人の自分があらわれて、自分を冷静に見つめ、そして問いかけてくるのです。
おまえはいったい何を哀しんでいるんだ。
ある日、人生を閉じられる事になったその人を哀しんでいるのか。
それとも、その人を失った自分を哀しんでいるのか。

これに後悔が加わり、自分の事がますます理解できなくなるのです。
そして、その人を失って自分を哀しんでいるのではと思うと、大切な人の死にも自己中心的な自分に、たまらない嫌悪感が湧いてくるのです。
答えなんて出せるはずもなく、答えが出せない事と後悔ばかりする自分に絶え間ない怒りがこみ上げてくるのです。

自分の中で混乱し、きった耐えられなくなったのかもしれません。
そんな心情を吐露しました。
その時、答えてくれた人がいました。

ある日、人生を閉じられる事になったその人を、その人を失った自分の両方を哀しんでいるのだと。

随分気持ちが軽くなった覚えがあります。

この「世界の中心で、愛をさけぶ」以降、多くの映画やドラマの題材として、ストーリーの中で人が亡くなるものが多くあったと思います。
商業的な問題があったと思いますが「それ泣け、やれ泣け」とCMでも繰り返すのです。
この「世界の中心で、愛をさけぶ」の商業的な成功にあやかりたい部分が多くあったのではと思うのです。
人の死があまりにも軽くなったのでは…と感じたのです。

私は「世界の中心で、愛をさけぶ」の原作はそのストーリーから、この想いを結実させるために書かれたのではと思うのです。
少し長いですが、原作より引用をします。
もし、読まれる予定の方がいればネタバレ部分がありますので、引用部分はとばして下さい。

…死は美しく恐れるに足りないなんて言っているのを読むと、すごく腹が立つんだ。愚かだし、なんか傲慢な気がするよ。死は美しくなんてない。ただ悲惨で虚しいものだよ。そのことはどうしようもないじゃない。

…中略…

それはすでにその人のことを好きになってしまったからではないかな。
別れや不在そのもが悲しいのではない。
その人に寄せる思いがすでにあるから、別れはいたましく、面影は懐かしく追い求められる。
また、哀惜は尽きることがないのだ。
すると悲哀や哀惜も、人を好きになるという大きな感情の、ある一面的な現れに過ぎぬとは言えないかな。

わからないよ

人がいなくなるということを考えてごらん。
こちらが最初から気に留めていない人がいなくなっても、わしらはなんとも思わんだろう。
そんなのはいなくなることのうちにも入らない。
いなくなって欲しくない人がいなくなるから、その人はいなくなるわけだ。
つまり人がいなくなるとうことも、やはり人に寄せる思いの一部分でありえる。
人を好きになったから、その人の不在が問題になるのであり、不在は残されたものに悲哀をもたらす。
だから悲哀感のきわまるところは、いずれも同じなのだよ。
別れは辛いけれど、いつかまた一緒になろうな、というようにね。

…中略…

死んだ人にたいして、わしらは悪い感情を抱くことができない。
死んだ人にたいしては、利己的になることも、打算的になることもできない。
人間の成り立ちからして、どうもそういうことになっているらしい。
試しに、朔太郎が亡くなった彼女にたいして抱く感情を調べてみてごらん。
悲しみ、後悔、同情…いまのおまえにとっては辛いものだろうが、けっして悪い感情ではない。
悪い感情は一つも含まれていない。
みんなおまえが成長してしていく上で、肥やしになっていくものばかりだ。
なぜ、大切な人の死はそんなふうに、わしらを善良な人間にしてくれるのだろう。
それは死が生から厳しく切り離されていて、生の側からの働きかけを一切受けないからではないだろうかね。
だから人の死は、わしらの人生の肥やしになることができるんじゃないだろうか。

…中略…

逆の場合は考えることにしたんだ。

もし、わしの方が先に死んでいたらどうだったろうかってね。
そうなっていたら、あの人はいまわしが感じているような悲しみを、わしの死に対してやっぱり感じなくてはならなかっただろう。
墓を暴いて骨を手に入れるなんてことは、あの人には難しかったに違いない。
朔太郎のような理解がある孫がいたかどうかもわからんしな。
そんなふうに考えると、わしが後に残されることによって、彼女の悲しみを肩代わりすることができたとも言えるわけだ。
あの人に余計な苦労をさせずに済んだ。

世界の中心で、愛をさけぶ 片山恭一

私は言葉を得たと思いました。
いまだに整理できないこともありますが、きっとそれはまだ考え続ける必要のある事です。
こうして書いていても、よく自分でまとめきれない気持ちです。

たとえば悲しみを通過するとき、それがどんなふいうちの悲しみであろうと、その人はたぶん、号泣する準備ができていた。喪失するためには所有が必要で、すくなくとも確かにここにあったと疑いもなく思える心持ちが必要です。そして、それは確かにそこにあったのだと思う。

号泣する準備はできていた 江國香織

ふと訪れた先で、この気持ちを確認した事があります。
よかったら、ぜひこちらも読んでみて下さい。
よみがえる心

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「うたいぬ」と「ひかるもの」

おーなり由子さんの「てのひら童話」に「だっこ天使」というお話があります。

言葉よりも抱きしめあう事で意思疎通をする天使が、やがてはひとつになり、水みたいにはじけてしまいます。
地上にはじけた時、この水を体にあびると、誰かにあまえたくなったり、気持ちを直感したりする。
たぶんこの粒を体のどこかに受けたのです…とお話は終わります。

小学生の息子が夏休みの宿題の本と共に図書館から借りてきたこの本に、週末私が夢中になりました。
おーなり由子さんのお名前は知っていましたが、著作を読んだのは初めてでした。
本の帯に吉本ばななさんが「彼女は天才で、しかも天使だ」とありますが、その通りだと思います。
それぞれのストーリー、絵、全てが秀逸です。
私は標題のストーリーが好きです。

ところで、小学3年生男子はこれをどう読んでいるのでしょう?

まずは
たねまき

じめんから
はえてくる話

掌の上の野原の
かみしばい

はじまり
はじまり

てのひら童話 / おーなり由子

眠れぬ夜に、いろいろと道草をしながら、はじまり はじまり。

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あなたが、私をみつけられるように、世界で一番不幸になっているから

大学1年生の一般教養「倫理学」で聞いた話です。
一般教養の授業は退屈な授業も多くありましたが、初めて学問に触れられる部分は楽しんでいました。
と言うよりも、退屈な授業は出席しない事が許される…許してしまうのですが、哲学や心理学とこの倫理学などは楽しみな分野でした。

そう、そこでのお話。
プラトンは「人間は球・丸であった」と話しました。
人はこの世に生れ落ちる前は一つの球で、誕生する時に2つに分かれる。
故に地上で誕生してからは、もとの自分の片割れ、自分の半分を求めて、人間は、男女の間は彷徨するとの話。
男女と書きましたが、同性同士もあるとプラトンは話したとの事。
なんとなく、現実の世界で起きている事もよく説明できる気がします。

例えば…
初めて逢ったのに、とても懐かしい気持ちになる…。
理由もなく、一緒にいるだけで気持ちが安らぐ…。
同じ事に、同じように共感するとか…。

さすが、プラトニックラブの語源たる思想。
私は単純に素敵な思想だと思ったのです。

「青い鳥」の「あなたが、私をみつけられるように、世界で一番不幸になっているから」と現世での再会を約束する、そんな気持ちと同じでしょうか。
プリンセス・プリンセス(ああ、このバンド名を書いたり、聞いたりすると80年代と思う今日この頃…)のアルバムで「Lovers」というタイトルがあります。
これはメンバーが「必ず売れる」と豪語したと言うだけあって、看板に偽りなしのとてもいい作品です。
特に私は1曲目のムーンライトストーリーが好きです。

きっと昔も2人は恋に落ち 何かに引き裂かれて
長い年月越えて 再び出会えてここにいる
そんな気がするの 今夜

PRINCESS PRINCESS  ムーンライトストーリー

曲の終盤でのキーボードの入り方なんて秀逸で、初めて聞いた時にはググッと引き込まれました。
これも、プラトンや青い鳥ではないですけれど、求めていた人に巡り会う、その喜びであると思います。
まだ、そんなに遅い時間でもないのですが、なんだかロマンティックモードですね。
お昼過ぎから少し暖かい、東京の気温がそんな気分にさせるのでしょうか。
でも、私の場合は春の訪れは、花粉と共にやって来ます。

期待も長くしていると疲れてくる。
そんな素敵な出会いや、出来事が自分自身にもあるだろうかと思う。
自分には…とか、自分なんて…思う時がある。
ずっとそれが、そんな気持ちが続く事がある。

自暴自棄になるそんな瞬間も、自分が現れるのを膝を抱えて、待っている人がいる。
今まで乗り越えてきた哀しみが、その人の哀しみを癒す事ができるかもしれない。
そのために、今の辛い事があるのかもしれない。
決して自ら死を選んではいけないと思う。
死ぬほうが、死んでいる人がうらやましいと思う日があっても!

知らなかったのですが、重松清さんが原作の「その日のまえに」が映画化されていたんですね。
私はこの本、重松清さんが好きな作家なので、発売時に無条件に購入して読んだのです。
ネタばれは無しにして、私は新幹線で涙がこらえきれなくなり、この本を新幹線内で読むのをやめました。

確認のしようがない話ですが、私睫毛がとっても長いんです。
メガネをしているのですけれど、結構調整が大変なんですよ。
いつもメガネ屋さんが困ります。
だから、瞳からこぼれそうな涙を我慢していると、まばたきをするたびに睫毛が涙をメガネの内側に飛ばして、汚してしまうのです。
以前、韓国に行ったおり、メガネが安いからと勧められサングラスを購入しましたが、これが問題で現在は車に置いてあります。
そのメガネをすると「謎のインチキ外人」と皆から言われます。
ようするに似合わないって事。

日常が永遠でない事。
今を生きている事。
しあわせな事が特別であり、すばらしい事なんだと、こころにこの本がストンと落ちてきます。
決して自ら死を選んではいけないね。
あなたが現れるのを待っている人が必ずいる。
自分の分かれた半分が待っている。

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シャコンヌ

シャコンヌ。
繰り返される美しく、哀切に満ちた、それでいて激情を思わせるメロディー。

ローラ・ボベスコのCDで初めてこの曲を聴いた時の衝撃は忘れられません。
ドラマティックなメロディー…。
そのメロディーで聞く人の心を激しく揺さぶる演奏…。
過去の出来事がこのメロディーを伴って鮮烈に呼び起こされました。
それは、これまでの事、過去の事を美化し懐かしむという事ではなく、そこから生きる喜びと情熱を与えてくれるものでした。

意図した事なのかは判断がつきませんが、このアルバムはシャコンヌが終わると次に「イントラーダ」「ロマンティックな小品第1番」と続くのです。
これが、シャコンヌの激情をやさしく引き取る様に続きます。

初めて聞いたのは高校3年生の時で、メディアがレコードからCDへと流れが決定的となった頃です。
アルバイトで当時8万円もしたケンウッドのCDプレイヤーを購入し、最初に購入したCDです。
「タイスの瞑想曲」が欲しくて、CDショップの人に探してもらい、このCDを案内され購入しました。

バイオリニストの川井郁子さんのヴァイオリンミューズというアルバムの冒頭にも、このシャコンヌがとてもドラマティクに登場します。
前述のローラ・ボベスコが演奏しているのとは、アレンジが異なりますが、これも素晴らしい。
原曲が持つ、人間の深遠を表現するエネルギーが内在していると感じさせてくれます。
そのヴァイオリンミューズの曲目解説に次の一文があります。

最近、幼い頃からずっと身近にいた人が亡くなって、しばらく私は喪失感と悲しみが胸いっぱいの日々を送っていた。
そんなある日、南半球の大自然の中で横たわり満天の星空を眺めていたら、なぜか急にのその人のことを強く心に感じ、同時に私は人知を遥かに越えた「大いなるもの」にその人を預けたのだ、と強烈な実感が湧いたのだった。
その時、心に鳴り響いたのがこの曲…。
ikuko kawai アルバム[Violin Muse]よりヴァイオリン ミューズ[シャコンヌ]

シャコンヌに出会った頃の自分はトンネルの出口を見出し始めた頃で、自分の心が再び明るい灯りを取り戻しつつある頃だったのです。
自分ひとりで生きているのではないんだ…そう思い始めていた心に暖かいものを注ぎ込んでくれたのです。
川井郁子さんが思う、大いなるものと同じ感覚が私にもあったかもしれません。
私は生かされているんだと…と思えるその時。

取引先の社長とお話をしている時に、ふと話がその方向へと向きました。
その方は過去に大切な人の死を、多くの哀しみをいくつも乗り越えてきた方です。
その方より写真集「大砂丘の声」という著作を頂戴しました。

頂戴した写真集をゆっくり見ました。
大切ですから、ゆっくりと時間をかけて。
そういう時間がなければ見ないと決めていました。

人間が地球に存在する有機物の一種であり、大いなる循環に組み込まれていると実感する内容でした。
写真を撮らせて頂いているとの著者?の気持ちに近い気持ちでしょうか。

ダリは地球のサイクルの24時間は、人間が勝手に決めたと言っておりますが…それを如実に感じました。
その尺度がいかに人間の都合であるかと思います。
諸行無常、悠久の流れの中で、世界中でも日本人が古来より持っていた感性を自身の中にも思い起こさせる内容です。

我々は生かされている事を忘れてはならないと切実に感じさせます。
大自然への畏敬の念と、人間が生かされている存在なんだ…。

映画「ラストサムライ」は外国人の手により、忘れていた日本人の表現であったとも思いますが、同書は日本人が日本以外の風景で、日本人を思い起こさせる素晴らしい内容です。
同書に出会う事が出来たのが幸せです。

時々、悠久の自然の中ので考えると、小さな悩み事や心配事が、悩み事や心配事ではなくなるでんすよね。

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花田少年史 番外編

硫化水素での自殺がメディアで多く取り上げあられ、連鎖反応の様に増加するのは非常に残念な事です。
特に若い子が世を儚んで、自らの命を終わらせる事は残念でなりません。

死んでしまったほうが楽だと思う。
そう思う瞬間が誰にでもあると思います。
生きているのがこの世に自分しかいないのではと思う孤独やそこからくる絶望の瞬間。
誰にでもあるのだと思います。

そんな時、どこかで誰かが同じ事で苦しんでいる事を知ったり…
そんな時、どこかで誰かが呼吸しているのを感じる事ができたら…
どんなに生きてゆく勇気が湧いてくるでしょうか。

もし万が一、お母さんの思いつくあらゆるいいところからすべて見放された子供がいたとしても、現に今こうして生きている。
その事があらゆる価値に先んじて、素晴らしいことではないでしょうか。
親を悩ませる子供ほど内心では自分はダメな子だ、親をかなしませることしかできないと思い込みがちです。
しかし、どんなに親を悩ませる子供であっても、生きていてくれることが、その子の何にも勝る「いいところ」であることを親はもっと謙虚に感謝し、喜び、称えてほしいのです。
「五つの約束でこどもは変わる」 濤川栄太 サンマーク文庫

映画にもなった「花田少年史」を以前に読みました。
映画化される前に原作が良いから読んでみるように薦められ「漫画かい…」なんて思いながら読みました。
しかし、すっかり魅了されて発売済みは全て購入して読みました。
特に第5巻の番外編はたまりません。

内容は是非、読んで頂くとして、死が逝く人も残る人にも大きな影響がある事が心にストンと落ちてきます。
亡くなった人を思うとき、後悔ばかりであったり、生きていてくれるだけでどんなに…なんて思います。
そんな後悔や絶望を抱えながらも、生きているという事の尊さも同時に感じるのです。
明日を一生懸命生きて行こうと思う勇気。

どんなに親を悩ませる子供であっても、生きていてくれることが、その子の何にも勝る「いいところ」である…なんてね。

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いつでも会える

標題の本が発売された頃なので、もう昔の事です。
近所の本屋へ何か良い本があったら買おうと出かけて行きました。

入った途端、店主とおぼしき人が、これまたレジにいる店主の奥様とおぼしき年配の女性の方に怒鳴っています。
「こんな雑誌の並べ方では、売れるものも売れない!」
レジにいる女性は縮んでいます。

店内をうろうろしながら「いつでも会える」なんて絵本を手にとってパラパラ立ち読みしておりました。
ところがページが進むにつれ、不覚にも涙がにじんできて、こりゃやばいと本をとじました。

恥ずかしいから買って一人で読もうと、購入を決めた何冊かを持ってレジに行きました。
少々レジは混んでいたのですが、私の番になると、さっき怒鳴られていた年配の女性が言いました。

「いつでも会える」を手にとって「贈り物ですか?」

私はちょっとびっくりして「いいえ、子供に読んで聞かせるんです」ともう一つの目的で答えました。
すると「これ、いいお話しですよね。私は読むたびに涙がでるんです。」と言っていました。

声を掛けてくれた事が嬉しくて、忘れられない出来事となりました。
同じ感動を共有できる事って素晴らしいと思いませんか。
しかも、まったく知らない、今ここで初めて会話した人と。

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クジラの海

スピリチュアル絵本という表現が的確なのだろうかと思う。

深く自分の心と向き合う時、静か深海は最適な場所だと思う。
この絵本で大海原を背景に縦横無尽に泳ぐクジラが描かれている世界はとっても美しいのです。
深海は「海辺のカフカ」に出てくる森の中の家も同じく連想させるものでした。

静かな深海で自分の心と向き合い、地上では感じれらない3次元の世界で思考をめぐらす事が出来る。
宇宙から地球を見ると、その考えに大きな影響があるのと同じようにきっと違うのだろうなぁ。
そう思わせる美しい表現なのです。

記載されているメッセージ。
「自分捜し」とい簡単な言葉で括られる事ではない、でも自分と向き合う必要なきっかけが良いと思うのです。

…愛は、存在そのもの
生きているとということ。
そう、生命そのものだ!

考えつづけなさい。
自分の 存在の 意味を…

言葉によって与えられるきっかけから、自分に向き合う気持ちを導き出し、クジラが泳ぐ美しい姿が心のイメージを増幅させる。
クジラが一頭で泳いでいる姿が何故かとっても説得力があるのです。

大人の絵本。
図書館にもおいてある所が多いそうです。
是非、探してみて下さい。
発見すれば、あなたにとってきっと必要なメッセージかもしれませんよ。

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罪と罰

居酒屋のトイレに張り紙一枚。

「口喧嘩最強はロシア人」

飲食中の話題提供に貼ってあったと思いますが、妙に納得しました。
約半年前ですが、ドストエフスキーの「罪と罰」を読み終えました。
この本、以前に一度読み始めたのですが、途中で挫折した事があります。

ロシア人の名前に馴染みがない事も一つ。
また、友人や様々な人と会話をしますが、これがどれも本当に議論。
勿論原語では読めないので、背景を説明する必要からこんなに自身の発言に説明が必要なのか…または殆ど八つ当たりで訳者が悪いのかなんて。

ところが、慣れてくると物語に引き込まて行きました。
最初に読んだ時、なぜ挫折したかと思うぐらいに。
感動。確かにこれは世界史に残る名作。

そして、いろいろな信念を持つ人との対決が続きますが、最後は人間で終わる事。
人間で終わるとは言葉を超えた、人間としての、人間の温かみで終わる事。
ソーニャの献身的な無償の愛が、ラスコリーニコフの凍てついた心を溶かしてゆく。
ここに向かってこの物語が結実して行くように私は思うのです。

「手当て」という言葉は読んで字の如く、幹部に手を当てて治療する事が語源であるとの事。
心が傷つくとき、なぜ胸に手を当てるのでしょう。
祈るとき、なぜ手を組むのでしょう。
恋人同士は、愛し合う者同士は、なぜ手をつなぐのでしょう。
子供はなぜ親と無意識に手をつなぐのでしょう。
意識のない患者に手をつないで呼びかけるのはなぜでしょう。

多くの言葉より、手をつなぐことで伝わる多くの心があると私は思うのです。

虫の足をもいだり、羽をちぎってばかりいる子供の母親がカンセラーに子供の行く末を心配して相談をしました。
そのカウンセラーの回答は母親に「毎日10分でもよいから、子供を膝の上にのせて本を読み、語りかけてあげて下しさい」との事だったそうです。
これで子供の異常行動は止まったそうです。
抱きしめるぬくもりとつながる手のあたたかさ。

私にも人のぬくもりが、暗い道にランプを灯し、進む道を照らしてくれた事があります。
それはまた…

これは新しい作品のテーマになり得るであろうが、-このものがたりはこれで終わった。(ドストエフスキー 罪と罰下巻より引用)。

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