書籍・雑誌

2013年4月13日 (土)

絶えることなき心

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昨日、営業で出かけていた蓼科の女神湖はまだ春の始まりでした。
道路の端には雪が残っています。
諏訪市では三分咲きの桜の上に、雪がのったとか。
「薄い桜のピンクが雪で映える」と夕刻のニュースのインタビューに答えている方がいました。

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とても静かでした。

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流れる川を見て思いました。
源流に近い場所はほんとに少ない水量ですが、やがて大きな川となります。
雪解け水が増えるに従い、水量を増します。
今流れている水はいつかの雪であり、雨であり、それが土の中を通って、やがて湧き出します。
海へと流れ着いた水は、やがて雨となり地上へ帰ります。

私の心にふたつの思いがよぎりました。
ひとつは、私たちも同じ、川の流れように様々な事が繰り返された証しである事。
ある日、突然に始まったのではなく、その源流がある事。
自分は始まりでもなく、でも終わりでもない事。
それは親がいる、子供がいる…という生物の事ではなく、多くの思いがある存在である事。
いつかの、誰かの思い。
自分の想う思い。

もうひとつは音楽と小説が私の中で重なった事。
百田尚樹さんの小説「永遠の0」と佐村河内守さんの「交響曲第1番HIROSHIMA」です。

「永遠の0」に描かれる戦争という日常とは異なる環境の中で、そして絶望が渦巻く中で、希望を見出す事の困難さと尊さ。
佐村河内守さんの「交響曲第1番HIROSHIMA」に表現される希望。
この交響曲は佐村河内守さん自身のコメントによれば、第1楽章が「運命」第2楽章が「絶望」第3楽章が「希望」を表すとの事です。
第3楽章の最後に現れる希望のメロディは、苦悩と絶望が深いこの交響曲の中にあって際立ちます。
このメロディが苦しみや哀しみが昇華されるイメージをとても私には抱かせるのです。
メディアでわずかに垣間見た、佐村河内守さんの生きた道に重なるせいかもしれません。

書ききれませんが、百田尚樹さんの小説「永遠の0」と佐村河内守さんの「交響曲第1番HIROSHIMA」に同じ普遍性を私は思うのです。
それは必ずある希望である様な気がするのです。
それは我々人間がほら穴に住んでいる頃から、壁面に絵を残し表現をする伝えたい思い。
そこから始まり、今日ネット上に掲載される思いまで。
そして、この後も続いてゆくのだと思います。

人は自らで思いの川を作り上げ、絶える事無くその心と思いは、川を流れ続けているのだと。
それは人と人の心を伝って流れてゆくものだと。

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2011年8月 4日 (木)

明日、晴れるといいな

今年の夏休みはどう過ごす…?
こんなアンケートに、今年は1位の家でゆっくりするに肉薄して、実家へ帰省するまたは帰るが2位だったそうです。
解説では東日本大震災で、いつでも会えると思っている両親や仲間、いつも変わらずあると思うふるさとが、そうではない事を皆が感じているから…なんて話でした。

私も小学生の頃は夏休みになれば、母方の両親がいる高知県へ早々に出かけ、毎日がパラダイス。
勉強なんてどこ吹く風で、うるさい両親は来ないし、弟とふたりで孫にはあまいおじいちゃんとおばあちゃんのところで、バカンス満喫でした。
毎日予定がいっぱいで、海に川に山に祭りに、もうキャーッてな感じです。
まあ…その後は東京へ帰れば、宿題締め切り地獄で精算させられましたけどね。
最後に高知県へ行ったのは、祖母の納骨の時で、もう何年たったでしょうか。

平井堅さんの「Ring」という楽曲が大好きです。

永遠に満たされぬ 孤独の影に怯えながら
いつか来る輝きを 求め人は歩き続ける
一度だけでもいい…喜びに声を上げ泣いてみたい

心の傷跡も 忘れられぬ過去も
その肩に積もる冷たさも ゆっくり溶けて流れ行く

Ring / 平井 堅

この歌詞のせつなさに、メロディがぴったりで、心の傷跡も~♪ってところから、何だかグッと詰まってきます。
また、この楽曲のPVには平井堅さん自身がが一切出演していません。
このPVはおじいさんの誕生日に家族が皆集まった…という様な内容です。
おじさいさんとおばあさんの子供がそれぞれの家族をつれて集まり、孫が加わり、甥っ子や姪っ子がたくさん集まって、それだけで楽しくて。
奥様方はおばあさんと一緒に台所に集まって、皆でわいわい食事の支度をしながら。
以前のホームドラマには必ずあった風景です。

心の傷跡も 忘れられぬ過去も
その頬を濡らす温もりが ほら輝きに変えるから
あなたの優しさが あなたの喜びが
その指を照らす微笑が いつも2人を包むから

Ring / 平井 堅

PVではあなたの優しさが~♪でこのPVに出演している出演者がここから先の歌詞を口ずさむのです。
このPVが入ったDVDを購入した時、かなり繰り返し見ました。

心の傷跡も 忘れられぬ過去も
その肩に積もる冷たさも ゆっくり溶けて流れ行く

Ring / 平井 堅

哀しみが癒されてゆく、感じがとても好きです。
「Ring」のタイトルの由来は、日本テレビ系『速報!歌の大辞テン』にコメント出演した際、「ホラー映画の『リング』のような怖い意味ではなくて、自分のコンプレックスを指輪(=リング)に例え、いつか自分の一部になって乗り越えられるという意味である」という旨の発言をした。
Wikipediaにあるこの楽曲の解説にこう書かれていました。

小学生の夏休みの宿題といえば、工作。
当家の二男も誰に似たのか、宿題は締め切り間際と決めているらしい…が、妻に昨年と同じような目に会うのは嫌だからねと強烈な一撃を受け、早々と準備する事となりました。
本当は昨年だけでなく、殆ど恒例行事ですけどね…。
そこで図書館に工作本を探しに行きました。
二男が他の本に目移りしながら、あーでもない、こーでもないと探しているところで、私はふと近くにあった本に目がとまりました。

はじめての文学 浅田次郎

はじめて小説読む児童向けに編集した本で、浅田次郎さんの他に、村上春樹さんや重松清さんもありました。
手にとり、浅田次郎さんの本のページをめくりました。
これがいけなかった。
この編集した本に「xie(シエ)」という短編が入っていました。
新刊本は「姫椿」という本の冒頭の短編小説です。

よせばいいのに、読み始めました。
止まりません。
複数回読んでいるのに、やっぱり涙が出そうになりました。
ああ、もうダメダメ。
おしまい、おしまい。
急いで途中で本を閉じました。
でも、初めて浅田次郎さんの作品を読む児童にはいいチョイスだと思います。

この小説、とても平井 堅さんのRingと通じるところがあるのです。
細かい内容はお読みになられる方がいるといけないので、ここでは割愛します。
でも、ちょっと読んでみたくなる1文だけ、引用します。

不幸の分だけ、ちゃんと幸せになれるよ。
ほんとだよ。
一生の恋人になる人には、何ひとつ隠しごとをせず、すべてを話して下さい。
幸せは少しずつ、ゆっくりと噛みしめて下さい。
スーちゃんの不幸はぼくがぜんぶ食べちゃったから、今までの苦労は愚痴じゃなくって、笑い話になりました。
涙も嬉しいときにだけ出るはず。

「xie(シエ)」 / 浅田次郎

明日、晴れるといいな。

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2011年5月11日 (水)

傷さえ見えなくなるほど、こんなに磨り減って

【ご注意】石田衣良さんの眠れぬ真珠のストーリーに関する記述があります。

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我が家の玄関にこんなオブジェがあります。
妻が海で拾って、色分けしバランスを考えたりしながら、小さな瓶に入れています。
他にも洗面所の小窓などに異なる形の瓶に入れて飾ってあります。

少し前に読んだ石田衣良さんの「眠れぬ真珠」にこんな場面があります。

咲世子は足元の砂のなかに浅緑に光るものを見つけた。
拾いあげて手にのせる。
サイダーのビンのかけらが、角を丸めて不思議な生きものの骨のように白くかすんでいた。

「最近は漂着物を集中して描いていますね。
新しい仕事の一環だと思うんですが、それは咲世子さんにとって、どういう意味があるんですか」

一瞬こたえに詰まった。
咲世子は漂着物に何かを感じたから、とりあえず手を動かしただけである。
頭でわかるような意味など、遥かに遅れてやってくるのが普通なのだ。
咲世子は言葉の人ではない。
表現をこととする人間は、頭など悪くてもいいのだ。
というより積極的な意味で、頭が悪いほうがいいとさえ思う。
言葉を探しながら、咲世子はゆっくり切り出した。

「わたしにもまだよくわかっていない。
でも、わたしは潮の流れにのって、長い年月海をさまよってきたかけらたちを、とても愛しく感じるの。
傷さえ見えなくなるほど、こんなに磨り減って、色だって元がわからないくらい漂白されて、それでも確かなフォルムだけは残している。
ああ、この子たちもがんばってきたんだ。
表面の生々しさはきれいに抜け落ちているけれど、それによって逆に自分らしさが浮き彫りになったんだなあ」

咲世子は光る海から素樹に視線をもどした。
微笑んで髪を潮風に乱れるままにまかせる。

「素樹さんのように若い人にはわからないかもしれないけど、わたしたちと同じ中年になった世代は、きっとうなずいてもらえると思う。
苦しい時間をなんとか生き延びて、嵐にもまれ、塩水だってたっぷりのまされて、ようやくわたしたちはここまでやってきた」

咲世子は手のひらの曇ったガラスのかけらを高くあげて見せた。

「見て。
それでも、この子はこうして自分の形を失っていない。
それどころか、昔よりもますますきれいで強くなっている。
私は漂流物を見ていると、いつも思うんだ。
これはものなんかじゃない。
ここにあるのは、流れ着いた光だって」

石田衣良/眠れぬ真珠

この後、咲世子の瞳から自然にしあわせの涙が流れます。

今日で大震災発生から3ヶ月が経過しました。
今もなお続く当地の苦難には言葉がありません。

忘れられない顔があります。

岩手県大槌町立大槌中は3月22日に小野永喜校長や教諭が町内の避難所を訪問し、3年生に卒業証書を手渡したとの報道がありました。
校舎は中学校の校舎は1階が津波で水没し、使用できない状況。
しかし、2階の校長室の金庫にあった卒業証書は無事であり、これを授与したいと小野永喜校長先生をはじめ、先生方々が尽力されたとの事。
生徒の多くは自宅が被災して多くの避難所でバラバラの生活となり、集まることができない状況です。
小野永喜校長先生や3年生の担任教諭らが町内9カ所の避難所を巡回し、避難所ごとに即席の卒業式を開いたとの事です。
節目として、卒業式が必要だと考え、それを実行してくれた小野永喜校長先生はじめ、同じ意志で尽力された先生方の心に感動しました。

忘れられないのは、報道で見たその内のひとりの男子生徒の顔です。
卒業証書を受け取ったその男子生徒の顔は、まぎれもない、もうひとりの男の顔でした。
15歳の中学生ではない、立派な男の顔でした。
未曾有の危機が、彼を大人に、男にしたのかもしれません。

これからの苦難の道のりに、心の傷さえ見えなくなるほど、磨り減ってしまうかもしれない。
でも、それでも確かなあなたの決意はきっと失われない。
そして人の哀しみを知り、それを自分の力にかえられる人になってゆくのでしょう。
私は彼の表情に、そんな事を確信したのです。

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2010年12月18日 (土)

心に光があるから希望の光がわかる

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ビニールシートが風に舞う。
獰猛な一陣に翻り、揉まれ、煽られ、もみくしゃになって宙を舞う。
天を塞ぐ暗雲のように無数にひしめきあっている。
雲行きは絶望的に怪しく、風は暴力的に激しい。
吹けば飛ぶようなビニールシートはどこまでも飛んで行く。
とりかえしのつかない彼方へ追いやられる前に、虚空にその身を引き裂かれないうちに、誰かが手をさしのべて引き留めなければならない‐。

風に舞いあがるビニールシート / 森 絵都

決意や決断は自分が予期しない、自分の心の中から湧いてくるものですよね。
それは心の底から湧いてきて、感動として、涙として、叫びとして自分で認識する事がないでしょうか。
私は今でも自分自身がビジネスの世界で、目指す場所を認識出来た日の事を覚えています。
それは会社から自宅までの帰り道。
暗い道を歩いている途中の事でした。

先日、「リトルランボース」という映画を観ました。
この映画はこの映画で、とても素晴らしかったので、別の記事で必ず書きたいと思っています。
この「リトルランボーズ」は東京では渋谷のパルコ3のみの公開だったのです。
久しぶりに渋谷へと行って来ました。
もう、しばらく訪れていないのですが、公園通りからパルコへ行く道が思い出せないのです。
公園通りからどう行くのか…の以前に銀座線の渋谷駅から、JR渋谷駅のハチ公前へ行くのに迷いました。

その日は金曜日。
とにかく人が多い。
丸の内や日本橋界隈とは、その密度違います。
また、人種が違う。
ネクタイをして、鞄を持っているサラリーマンが見当たらないのです。
なんだか、歩き方も違う気がします。
同じ雑踏でも、新宿の方が歩きやすい。

「リトルランボーズ」の上映前に映画「マジでガチなボランティア」の予告編がありました。
大変に興味をそそられて、次はこれを観よう…という気持ちになりました。
「リトルランボーズ」が終わって、スクリーンから出てくるとチラシを手渡しされました。

世界を変えられなくても 世界を変えるキッカケにはなれる

2007年のカンボジアで、確かに僕はそう言いました。
でも、本当にそうでしょうか?
女の子が大好きで、パーティーが大好きで、ただイベントやってきただけの僕が、世界を変えるキッカケになんてなれるのでしょうか?
夢を語れば語るほど、大人から厳しい現実の声
「病院が建っても運営どうするの?」
「ハコモノの病院ができたからって、何か世界が変わるの?」
そんな指摘を受けながら、答えがわからないまま活動してきました。
ですが、気づいたんです。
「知ってしまったら、そこには『伝える』責任が生まれる」ということに。
そして、「伝える」「知る」「また伝える」の連鎖によって人々の内面にチャリティの花を植えること、これが世界を変えるキッカケになれるんじゃないかってことに。
だから、僕らは映画を通じて、伝えていきます。

学生医療支援NGO~GRAPHIS~
初代代表 石松宏章

殊更に、こんな自分が…と強調をしていましたが、そこには自分を突き動かす力と、自分の心に驚き、感動している証ではないだろうかと思いました。
冒頭の話の繰り返しですが、決意や決断は、予期しないある日に訪れるものだと思います。
それまでのたくさんの要素が化学反応を起こす瞬間です。
それは慌てて必死に探すものではなく、また、いつもなければならないものではないと思います。
大切なのは、求め続け、探し続ける気持ちを忘れずに、持ち続ける事だと私は考えます。
それは予期しないところから、突然やってくると思います。

ニーチェやサルトルは大人の教養としても必要…と学生時代から様々な人に言われ続けました。
しかし、近寄りがたい存在です。
先生や上司、先輩に薦められる本は、買ったら友達に貸し本料を取って貸し、内容を聞いたほうが良い…なんて昔から言いませんか?
それより私には魅力的な本がたくさんあったのです。

しかし、書店に平積みされている「超訳 ニーチェの言葉」は先に書いた様な事もあり、ミーハーで購入しました。
アマゾンの書評では、ニーチェの本じゃないと酷評もありますが、このエッセンスで私みたいに近づく人もいるので良い…としたいと思います。
脈略なくエッセンスだけ、断片だけ抜き出すのは…と批評もありますが、この私のブログも引用が多く、記事の書き方は同じようなものです。
ご容赦ください。

人を喜ばせると自分も喜べる

誰かを喜ばせることは、自分も喜びでいっぱいにする。
どんなに小さな事柄でも人を喜ばせることができると、わたしたちの両手も心も喜びでいっぱいになるのだ。

【曙光】 超訳 ニーチェの言葉

人はとてもお人好しに、神様が創ったのでしょう。
冒頭の風に舞うビニールシートはストーリーから、人が人を根源的に求める内容がありとても好きです。
このストーリーはともすれば、安易に自分の思いを、心を、妥協する事を問うてくる強さがあります。
「マジでガチなボランティア」も人として、根底に同じものがある…と私は考えるのです。

心に光があるから希望の光がわかる

ここに希望があったとしても、自分の中に光や灼熱を体験していないならば、それが希望だとはわからない。
希望は何をも見ることも聞くこともできない。

【悦ばしき知識】 超訳 ニーチェの言葉

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さて、映画を見に行く時間を都合しなければなりません。


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2010年8月 3日 (火)

さあ、先の知れた未来を変えてみせると、この胸に刻みつけよう

【ご注意】八日目の蝉 角田光代著 中央公論新社の内容に関する記載があります。

例えば、妻や恋人や大切な人に自分が見て感動した景色やおいしい食べ物を案内したい、紹介したい、一緒に味わいたいと考える事があると思います。
これは同じ感動を一緒に味わいたいたいとか、喜びを共にしたいとか…一緒にという気持ちだと思うのです。
例えば、子供といろいろなところに遊びに行く。
自分が子供の頃に感動した事やおもしろいと思った事、その後に振り返ってよかったと思う事。
経験させてあげたいと思います。
妻や恋人や大切な人、そして子供も、それは自分ではなく、自分とは違う別の人であるからです。

八日目の蝉。
この小説の中で、妊娠を知った登場人物が決意を秘めて病院を訪れます。
しかし、その登場人物はその決意を翻すのです。

病院に調べにいったときも、その場で手術の日取りを決めるつもりだった。
だけどね、千草、おじいちゃんの先生がね、子供が生まれるときは緑がさぞやきれいだろうって言ったの。
そのとき、なんだろう、私の目の前が、ぱぁっと明るくなって、景色が見えたんだ。
海と、空と、雲と、光と、木と、花と、きれいなものぜんぶ入った、広くて大きい景色が見えた。
今まで見たこともないような景色。
それで私ね、思ったんだよ。
私にはこれをおなかにいる誰かに見せる義務があるって。
海や木や光や、きれいなもをたくさん。
私が見たことのあるもの、ないものも、きれいなものもはぜんぶ…

…もし、そういうものぜんぶから私が目をそらすとしても、でもすでにここにいるだれかには、手に入れさせてあげなきゃいけないって。
だってここにいる人は、私ではないんだから…

八日目の蝉/角田光代

素晴らしい景色に感動した日。
美しい音楽に心ふるえた日。
努力を続けてきた事が実った日。
自分が誰かの生きる大きな支えになる事が出来ると思える日。
喜びを、哀しみを誰かと分かち合えた日。
やさしさにふれた日。
愛した日。
愛された日。

これから素晴らしい経験をし、人生を豊かにする子供たちを、未来を信じて疑わない子供たちを。
そんな子供たちを見て、実は生きる力を得たり、喜んでいるのはきっと大人です。
自分もいつか通って来た道かもしれないのに、もう忘れていたり、自分が通る事が出来なくて後悔した事であったり…。
目を輝かせ、喜んだり、泣いたり、さびしかったり。
そんな姿を見て、思い出す事ってありますでしょう。

<2幼児死体遺棄>熱気と異臭 「毎日のように泣き声」
哀しくて、さびしくて、辛かっただろう…。
暖かくて、安心で、豊かな日々を。
天国で満たされた日々である事を、祈らずにはいられません。

予期せぬ妊娠や出産、育児で最適な道を探す事を支援するNPO法人があります。
環の会です。
HPはhttp://wa-no-kai.jp/です。
そのHPにこんな記載があります。

環の会(わのかい)は、予期しなかった妊娠で生まれた子ども、又は出産の条件が整わず悩む親の相談を受け、更に、出産後の子どもの生命を守るための特別養子縁組など(養子)他の相談に応じ、子どもの福祉の増進を図ることを目的とし、18年間活動しています。

この会の活動がNHKで放映された事があります。
事情があって子供を養育出来ない家族が、養子縁組が成立し、生みの親から育ての親へと…その場面がありました。
生みの親が育ての親へ、子供を託します。
その日、なかなか子供を託せない生みの親とその哀しみを理解する育ての親。
互いに涙が止まりません。
子供のしあわせを願う気持ちは、いずれも変わりがないのです。
そのせつなさに、続く哀しみに、たまらなくなりました。

そして、この養子縁組が過去に成立し、今は家族として暮らしている一家の事がありました。
ここでは生みの親と育ての親がいる事を隠していません。
隠しきれないので、その事は説明しているとの事でした。
学生のその彼女は既に、生みの親にも、育ての親へも愛情と感謝の気持ちを持っていました。
その事実を受け入れる事は大変な事です。
でも、その事実を受け入れる事で、強さと大きなやさしさをその彼女が持っている事を感じました。

前に、死ねなかった蝉の話しをしたの、あんた覚えてる?
七日で死ぬよりも、八日目に生き残った蝉のほうがかなしいって、あんたは言ったよね。
私もずうってそう思ってたけど…

…それは違うかもね。
八日目の蝉は、ほかの蝉には見られなかったものを見られるんだから。
見たくないって思うかもしれないけど、でも、ぎゅっと目を閉じてなくちゃいけないほどにひどいものばかりでもないと、私は思うよ…

八日目の蝉/角田光代

人よりも哀しみを知る人がやさしいのは、こんなところに理由があるのかもしれません。
そんな人が、他人の哀しみも自分の哀しみとして、強くなってゆく。
そして、未来への道を作ってゆく。

生まれたのぼくらの前にはただ
果てしない未来があって
それを信じてれば 何も恐れずにいられた
そして今僕の目の前に横たわる
先の知れた未来を
信じたくなくて 少しだけあがいていみる
いつかこの僕の目の前に横たわる
先の知れた未来を
変えてみせると この胸に刻みつけるよ
自分を信じたなら ほら未来が動き出す
ヒッチハイクをしてる 僕を迎えに行こう

未来 / Mr.Children

未来を獲得する為に、たくさん戦っている人がいます。
さあ、先の知れた未来を変えてみせると、この胸に刻みつけよう

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2010年3月20日 (土)

あと5年したならば、また読んでみようと考えています

小説は登場人物の人生を疑似体験する事となり、学ぶと言うよりも少し大げさですが、体験する…という位置づけになるのだと思います。
例えば、山崎豊子の小説はきめ細かい取材のよる事実から派生する小説なので、私はグイグイと引き込まれますし、感情移入により、全身に怒りが満ちたり、哀しみに嗚咽しそうになる事がありました。

大人として読むべきオススメの本は?
私はヘルマン・ヘッセ「シッダールタ」をオススメします。

同書宣伝用の帯にもあるのですが人は何のために生きるのか」という大変な命題の書籍です。
この命題に挑戦しながらも、理解出来ない理論の構築で、哲学書の様に説明する内容ではありません。
同書を執筆中にヘッセはスランプに陥り、完成までに4年近い歳月を費やしています。
「体験しないことを書くのは無意味」だと禁欲、断食、瞑想などの難行苦行を行い完成をさせたそうです。

ヘッセ曰く「私の生涯の収穫」「最も貴重なもの」と言わしめている作品です。
あくまで小説の形態ですから、小難しい理屈のこねくり回しではないでのす。

ダリが1日を24時間とした単位は、勝手に地球人類が決めた事で、宇宙はその自身の摂理で動いていると言った事。
24時間と決めた人間は既に、人間自身が限界を決めている証ではないかと思う事。
この思想は表現を変えて、リリー・フランキーの東京タワーにも出てきます。
この事から、私は普遍性が内在している事項だと思うのです。
「時間」という事へも人間がコントロール出来ない、「時」は実在しない…。

そして、「愛」の普遍性が、実在しない「時」との関係で現れてくるのです。
自分でも消化不良なのか、上手に表現できませんが、記載されている内容を引用しての説明は避けているので、ご容赦ください。

小説の形態である事から、主人公に自身を投影し、読み進める事が出来ます。
「人は何のために生きるのか」
「真理とは何か」
私に答えがあるわけはありません。

最初に読んだのは2006年です。
あと5年したならば、また読んでみようと考えています。
これは未完というか、消化不良というか、様々な思いがあるからこそです。

なお、同書は同じタイトルで文庫本となっているのがあります。
私は岡田朝雄訳の新書版「シッダールタ」を読んでいます。

*敬称略


ブログ学園

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2009年12月 6日 (日)

心の力

心の力。
時速約900㌔・高度1万メートル上空。
とても胸が熱くなっていました。

遅ればせながら、その時の出張のお供に「クローズド・ノート」を連れて行きました。
映画化された時の沢尻エリカさんの記者会見が映画それ自体よりも、あまりに有名になった事もあり、原作本を購入していた事も忘れていました。
片道12時間。
これなら、眠くならなければですが、片道でハードカバー2冊と文庫本1冊が読めると判断。
往復でも帰路は疲れがあるとも考え、ハードカバー3冊と文庫本2冊としました。

今週は1週間連続の長期出張となります。
また、ジプシーの様な生活。
慣れたホテル暮らしですけれど、味気ないものです。
会社の業務ですから、経費の事もあり、そうそう高いホテルにいつもいつも泊まってはいられません。
でも、ビジネスホテルのベットとテレビとユニットバスだけの味気ない部屋はどうにも好きになれません。
なんだか、監獄に入っているようです(監獄入りの経験は幸いありませんが)。

また、今回はもう雪が降っている様な場所にも行かねばならず、電車やバスを利用してというわけには行きません。
これ、何が残念かというとせっかくの移動時間に読書が出来ないのです。
まあ、近頃のレンタカーは必ずCDもついているので、買いだめしておいたCDにゆっくり付き合ってもらう予定です。

東京は暖かい日が続きますが、朝晩は12月らしい日もありますね。
この時期の雨はとても冷たく感じます。
さて、人は誰かに認めてもらえないと、とっても生きているのが辛くなります。
おーなり由子さんの「天使のみつけかた」にこんな表現があります。

ある日は とても ひとりっきりの きもちがした。

心がひりひりした。

じぶんが、いらないもののようであった。

「天使のみつけかた」 おーなり由子

すごく的確な表現ですよね。
これは天使だった男の子が人間になり、女の子に恋をした時の気持ちなのです。

けれど あの女の子を見かけると 地上は一気に天上のように輝いた。

一日中、げらげら笑いたい日もあった。

「天使のみつけかた」 おーなり由子

これぞ恋した時の気持ちですね。
恋する人に自分の存在を上手に認めてもらえない時は、なんとも苦しい事です。
やりばの無い気持ちに困りますよね。
ほんとに、せつなくなります。

同僚で会社帰りに食事をして帰った時に、たまたま読んだ本の話がありました。
まあ、見栄もあってビジネス本を上げる人も多かったのですが、私は「クローズド・ノート」と話したのです。
最近では一番良かったと思ったので、素直にそう言ったのです。

そうしたら、一緒にいた他の課の課長さんが、大きな声で「あ~いいよな、俺も伊吹賞欲しいよ」と言ったのです。
胸を片手で2回、トントンと叩くしぐさをしながら。
ストーリーに出てくる「真野伊吹」先生が認定する賞が「伊吹賞」です。
それから、それはなんだ、なんだ、なんて話になりました。

「真野伊吹」先生は小学校4年生のクラス担任の先生です。
伊吹賞とは例えば、忘れ物の多い子供が1週間忘れ物をしなかったら伊吹賞。
掃除のときに窓の桟まで拭いている女の子に伊吹賞。
みんなを笑わせるひょうきんな子に伊吹賞。
学級文庫をよく読んでいる子に伊吹賞。
帰りの会で先生が「本日の伊吹賞は…」なんて発表します。
子供はどきどきわくわく、自分の名前が呼ばれるのを待っています。
伊吹賞のシールが多くなって行く事を、子供達は楽しみします。

誰かに認めてもらえる事。
これは年齢を問わずうれしい事ですよね。

そして、この本に出てくる言葉「心の力」。

何かをするのに頑張ったり、最後までくじけなかったりする意志の強さとか我慢強さというようなことから、相手を思いやること、お互いに信頼し合うこと、励まし合うこと…といったことまで、この「心の力」という言葉…

「クローズド・ノート」 雫井 脩介

「心の力」がスランプになる。
この小説は他に伊吹先生の恋も同時進行で進みます。
伊吹先生が大切な人の、何気ない事にとても喜んでみたり…。
不安になったり…。
疑心暗鬼になったり…。
登校拒否になる子供とのやりとりや、自分の恋で気持ちが不安になる事。
誰もが完全無欠ではない事。
誰でもが当たり前にある、そんな人間くさいところがたくさんあります。

いつもはやさしくできるのに…。
いつもはもって話を聞いた上げられるのに…。
いつもはこんな自分勝手なわがままばかり言わないのに…。
いつもはもっと元気よくしていられるのに…。
「心の力」がスランプになって、いつもと違ったり、いろんな事が嫌になったり、誰にでもある事ですよね。

私がこの小説に参ってしまった気持ちが、少しでも伝わりましたでしょうか。
枠外である、最後の最後にある衝撃の事実も、私には大きかったのです。
著者である雫井さんのイメージが「犯人に告ぐ」とまったく異なってしまった事も驚きでしたが、これが携帯小説であった事も驚きでした。
帰国してから、映画のDVDをすぐ見ました。

辛い事…。
やりきれない気持ち…。
哀しい事…。
胸を片手で2回、トントンと叩くしぐさをしながら、私も「心の力」を呼び覚まします。

思いやりの「心」をあたたかくて強い「力」にすることができる4年2組のすばらしい子どもたち。 いつまでもその「心の力」を持ち続けて下さいね。

「クローズド・ノート」 雫井 脩介

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2009年10月31日 (土)

だけど 愛すべきあの人に 結局何かも癒されている

取引先のラウンジ(応接者が待つ素敵なラウンジがある羨ましい取引先なんですよ)で、FMか有線放送なのかわかりませんが、流れていた曲に心奪われてしまいました。
コーヒーを運んできてくれた女性とは、顔見知りである事もあり「今流れているこの曲知ってる?」と聞いたのです。
彼女は年齢を聞いた事はありませんが、まちがいなく20代。
「えっ、ケンシロウさん(本当は苗字です)知らないんですか?浜崎あゆみの"M"ですよ」
「浜崎あゆみ…知ってるよ、あゆだろ、あゆ」なんてお答え。
曲名をメモしながら、勿論エイベックスの看板って事ぐらいは知っているし、おじさんの記憶はTBSドラマ「未成年」に出演していた可愛い女の子…程度の印象だったのです。

早速、その場所での仕事を終えると、近くにあるショップに立ち寄り「M」の入っているアルバム「BALLADS」を買いました。
レンタカーでの移動だったので、早速聞きました。
移動しながら、全曲をまず聞きました。
やっぱりどこかで耳にして、メロディーだけ記憶にある曲もいくつかありました。
それからは「M」だけ1曲をリピート。

これ名曲。
特に途中パイプオルガンと同じ音(たぶん本物ではないと思うのだけど…)を使ってのアレンジはドラマチック。
また、曲の構成も工夫されていて素晴らしい。
繰り返し何度聞いてもいい。

楽曲は本人が作っているのですね。
彼女が根強い人気を保っているのが、わかる気がします。

MARIA 愛すべき人がいて
時に 強い孤独を感じ
だけど 愛すべきあの人に
結局何もかも満たされる

MARIA 愛すべき人がいて
時に 深く深いキズを負い
だけど 愛すべきあの人に
結局何かも癒されている

M / 浜崎あゆみ

特にこの歌詞は、愛するが故の苦しみ。
とても的確な表現と思いました。
吉本ばななさんの「うたかた」の冒頭にこんな表現があります。

たとえるならそれは、海の底だ。
白い砂地の潮の流れに揺られて、すわったまま私は澄んだ水に透けるはるかな空の青に見とれている。
そこではなにもかもが、悲しいくらい、等しい。
目を閉じて走っても、全く違う所を目指したつもりでも、気持ちはいつの間にかくり返しそこへたどり着く。
そこはいつもとても静かで、いつも彼の面影に満ちているので、私は目を覚ますことなく、ずっと、そこでそのまま眠っていたくなる。

うたかた / 吉本ばなな

人を好きになると、喜びも勿論なのだけれど、気持ちがどうどうめぐりをくり返し、疑心暗鬼になったり、勝手に苦しんだりします。
でも、その度に新しい発見があったりして、またくり返し恋をする。
さすが、吉本ばななさんの表現はピッタリです。

誰かを好きになった、その時の自分の気持ちだけは忘れてはいけませんよね。
今週末は「BALLAD」をたっぷりと。
でもこれ、ずいぶん前に発売されたアルバムなんですね。
秋の夜長にぴったりな一品です。

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2009年8月24日 (月)

未完の事

先日、妻の実家で義理の親父が見ていたCSのTBSチャンネルを横から見ていました。
放映していたのはドラマ「世界の中心で、愛をさけぶ」の最終回でした。
原作は読みましたが、映画もドラマも見た事がありませんでした。

ドラマの中にもありましたが、大切な人の死を乗り越えるは並大抵の事ではありませんよね。
時間と共に衝撃は薄らいでも、まるで深い海によどむものの様に哀しみは沈みます。
事実を受け入れて状況は理解をしても、心が納得しないのです。

やがてもう一人の自分があらわれて、自分を冷静に見つめ、そして問いかけてくるのです。
おまえはいったい何を哀しんでいるんだ。
ある日、人生を閉じられる事になったその人を哀しんでいるのか。
それとも、その人を失った自分を哀しんでいるのか。

これに後悔が加わり、自分の事がますます理解できなくなるのです。
そして、その人を失って自分を哀しんでいるのではと思うと、大切な人の死にも自己中心的な自分に、たまらない嫌悪感が湧いてくるのです。
答えなんて出せるはずもなく、答えが出せない事と後悔ばかりする自分に絶え間ない怒りがこみ上げてくるのです。

自分の中で混乱し、きった耐えられなくなったのかもしれません。
そんな心情を吐露しました。
その時、答えてくれた人がいました。

ある日、人生を閉じられる事になったその人を、その人を失った自分の両方を哀しんでいるのだと。

随分気持ちが軽くなった覚えがあります。

この「世界の中心で、愛をさけぶ」以降、多くの映画やドラマの題材として、ストーリーの中で人が亡くなるものが多くあったと思います。
商業的な問題があったと思いますが「それ泣け、やれ泣け」とCMでも繰り返すのです。
この「世界の中心で、愛をさけぶ」の商業的な成功にあやかりたい部分が多くあったのではと思うのです。
人の死があまりにも軽くなったのでは…と感じたのです。

私は「世界の中心で、愛をさけぶ」の原作はそのストーリーから、この想いを結実させるために書かれたのではと思うのです。
少し長いですが、原作より引用をします。
もし、読まれる予定の方がいればネタバレ部分がありますので、引用部分はとばして下さい。

…死は美しく恐れるに足りないなんて言っているのを読むと、すごく腹が立つんだ。愚かだし、なんか傲慢な気がするよ。死は美しくなんてない。ただ悲惨で虚しいものだよ。そのことはどうしようもないじゃない。

…中略…

それはすでにその人のことを好きになってしまったからではないかな。
別れや不在そのもが悲しいのではない。
その人に寄せる思いがすでにあるから、別れはいたましく、面影は懐かしく追い求められる。
また、哀惜は尽きることがないのだ。
すると悲哀や哀惜も、人を好きになるという大きな感情の、ある一面的な現れに過ぎぬとは言えないかな。

わからないよ

人がいなくなるということを考えてごらん。
こちらが最初から気に留めていない人がいなくなっても、わしらはなんとも思わんだろう。
そんなのはいなくなることのうちにも入らない。
いなくなって欲しくない人がいなくなるから、その人はいなくなるわけだ。
つまり人がいなくなるとうことも、やはり人に寄せる思いの一部分でありえる。
人を好きになったから、その人の不在が問題になるのであり、不在は残されたものに悲哀をもたらす。
だから悲哀感のきわまるところは、いずれも同じなのだよ。
別れは辛いけれど、いつかまた一緒になろうな、というようにね。

…中略…

死んだ人にたいして、わしらは悪い感情を抱くことができない。
死んだ人にたいしては、利己的になることも、打算的になることもできない。
人間の成り立ちからして、どうもそういうことになっているらしい。
試しに、朔太郎が亡くなった彼女にたいして抱く感情を調べてみてごらん。
悲しみ、後悔、同情…いまのおまえにとっては辛いものだろうが、けっして悪い感情ではない。
悪い感情は一つも含まれていない。
みんなおまえが成長してしていく上で、肥やしになっていくものばかりだ。
なぜ、大切な人の死はそんなふうに、わしらを善良な人間にしてくれるのだろう。
それは死が生から厳しく切り離されていて、生の側からの働きかけを一切受けないからではないだろうかね。
だから人の死は、わしらの人生の肥やしになることができるんじゃないだろうか。

…中略…

逆の場合は考えることにしたんだ。

もし、わしの方が先に死んでいたらどうだったろうかってね。
そうなっていたら、あの人はいまわしが感じているような悲しみを、わしの死に対してやっぱり感じなくてはならなかっただろう。
墓を暴いて骨を手に入れるなんてことは、あの人には難しかったに違いない。
朔太郎のような理解がある孫がいたかどうかもわからんしな。
そんなふうに考えると、わしが後に残されることによって、彼女の悲しみを肩代わりすることができたとも言えるわけだ。
あの人に余計な苦労をさせずに済んだ。

世界の中心で、愛をさけぶ 片山恭一

私は言葉を得たと思いました。
いまだに整理できないこともありますが、きっとそれはまだ考え続ける必要のある事です。
こうして書いていても、よく自分でまとめきれない気持ちです。

たとえば悲しみを通過するとき、それがどんなふいうちの悲しみであろうと、その人はたぶん、号泣する準備ができていた。喪失するためには所有が必要で、すくなくとも確かにここにあったと疑いもなく思える心持ちが必要です。そして、それは確かにそこにあったのだと思う。

号泣する準備はできていた 江國香織

ふと訪れた先で、この気持ちを確認した事があります。
よかったら、ぜひこちらも読んでみて下さい。
よみがえる心

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2009年8月 2日 (日)

「うたいぬ」と「ひかるもの」

おーなり由子さんの「てのひら童話」に「だっこ天使」というお話があります。

言葉よりも抱きしめあう事で意思疎通をする天使が、やがてはひとつになり、水みたいにはじけてしまいます。
地上にはじけた時、この水を体にあびると、誰かにあまえたくなったり、気持ちを直感したりする。
たぶんこの粒を体のどこかに受けたのです…とお話は終わります。

小学生の息子が夏休みの宿題の本と共に図書館から借りてきたこの本に、週末私が夢中になりました。
おーなり由子さんのお名前は知っていましたが、著作を読んだのは初めてでした。
本の帯に吉本ばななさんが「彼女は天才で、しかも天使だ」とありますが、その通りだと思います。
それぞれのストーリー、絵、全てが秀逸です。
私は標題のストーリーが好きです。

ところで、小学3年生男子はこれをどう読んでいるのでしょう?

まずは
たねまき

じめんから
はえてくる話

掌の上の野原の
かみしばい

はじまり
はじまり

てのひら童話 / おーなり由子

眠れぬ夜に、いろいろと道草をしながら、はじまり はじまり。

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