しかし間違いなく、未来を変えることはできる
大学1年生の時、一般教養の講義に哲学がありました。
月曜日の1限で履修者は少ない講義でした。
つまらない一般教養の講座で、私は比較的出席率もいい講座でした。
その中に願望が成就するとか、人生の意味づけにおける宗教的な側面についての講義がありました。
過去のつらい出来事は、今のしあわせの意味を知るために、神様が与えてくれた試練であった…と過去の出来事に意味を持たせる位置づけの講義がありました。
しかし私には、この過去の出来事から現在を見る視点は出来ても、それが辛い事である事をその時強く感じていた覚えがあります。
先日、大阪の別の営業部のもうひとりのリーダーと昼食を食べました。
その方は同じ日の辞令で大阪から東京へ転勤となりました。
同じ事業部門で、東京で勤務している時はあまり接点がありませんでしたが、大阪の営業部では異なる地域の同じ職責となり、よく会話をする様になっていました。
その日、ガード下の昼は定食屋、夜は飲み屋なんて感じのところで食事をしました。
前述の方以外に、私の営業部門の後輩が2名一緒でした。
店内を見回し、お店の雰囲気から「昔新宿にこんな店があったなぁ…」と私が呟きました。
前述の方が「ああ、そうだね。学生時代によくこんなところで飲んだなぁ」と答えました。
「子供がなんでこんなところで飲んでるんだ…なんてケンカ売られた事もあったな」と少し昔話。
そんな事から、少し過去の行いについての話となりました。
思い出すだけでも、恥ずかしくて叫びたくなる事がある。
無かった事にして欲しい事がある。
消してしまいたい事もたくさんある。
若気の至りとしてしまえば、一括りですがそんなに単純ではありません。
4人の内のひとりは、その意味がよくわからない様でした。
思い上がりの言葉。
誰かを傷つける言葉。
愚かな行い。
確かにどこかで学んでいる事も多く、過去の愚かな行いを今も認識できないなら、成長がない事も理解が出来ます。
過去の自分の愚かな行いに気がつく人は幸いだ…とどこかの偉人が言っていた覚えがありますが…幸いでしょうかね。
昨日朝、目が覚めるとベットの上で横たわりながら虚空に左手を伸ばしている自分に気がつきました。
何かを引き止める様な仕草でした。
何をしているんだ自分は?
ずいぶん寝汗をかいていました。
夢の続きがあるわけでなく、前後のつながりはなく、脈略なく、私自身は「?」だったのです。
単なる伸びでしょうかね?
後悔はたくさんしました。
勿論、今だって少なからず後悔する事があります。
でも、後悔を繰り返すのが嫌なので、自分の心や思いに従う事は多くなりました。
自由という事が大切である事を思います。
時として不安にもなる。
その考えも、意見も自分ひとりしかいない時もある。
たまらなく孤立感を感じる事も、孤独である時もある。
でも、自分の心を、自分の思いを殺す事はとても辛い。
それこそが、大きな後悔の種になる。
その時ひとりでも、自分の意志を貫き通していると、どこかで同じ思いの人に出会ったりする事があります。
きっと人間の考える事に、あまり大きな違いはないのだと思います。
そんな事が支えになる時もあります。
「世界にひとつのプレイブック」という映画がありました。
過去の人生、大きな失敗で狂ってしまった男女が再生して行くストーリーです。
ふたりの人生には後悔がたくさんあります。
映画の宣伝に「人生のどん底で見えた希望のひかり」という言葉があります。
これは宣伝文句で、映画の中で当事者は日々後悔に絡め取られながら、必死で生きる姿が描かれています。
そんな中、もがいている毎日の中から未来を見つけ出すその姿に、そのストーリーに、心惹かれます。
私はクライマックスのダンスコンテストのシーンが大好きです。
そのダンスホールでふたりが無意識にする行いがとても好きです。
是非、映画を見て頂く事として、これ以上は止めておきましょう。
微笑ましく、でもニヤリとしてしまいます。
私は踏み切りの遮断機を越えて、人を救いに行けるだろうか。
…私はきっと目をつぶってしまうだろう。
そうして、そんな事しか出来ない自分に、くよくよと後悔し考えるのではないかと思うのです。
アメリカの弁護士さんで、こんな言葉を残している方がいます。
許すことで過去を変えることはできない。
しかし間違いなく、未来を変えることはできる。バーナード・メルツァー
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