表現をする衝動に駆られるのだと思います。
今日は仕事も予定通り終わり、台風の様子を心配しながら早めに帰宅しました。
久しぶりに家での夕食は「栗ごはん」でした。
食事の支度が出来るまでは、揚げ出し豆腐と肉じゃがをつまんでいました。
晩酌はしません。
もう仕事のお酒だけで十分です。
「栗ごはん」…おいしいね。
日本人の繊細な感覚がなせる、季節の味ですね。
さて、前の記事にある槐多庵には、この槐多庵の本館にあたる信濃デッサン館があります。
ここは夭折の画家と呼ばれる孤高の道を歩んだ薄命の画家たちの作品がたくさんあります。
私は作詞も作曲も出来ませんし、演奏も×です。
絵画や造形も不得手です。
不得手というよりも何かを表現する手段になりません。
文章による表現も、これも体系だった読書をしてきたわけではなく、乱読ですのでその影響は様々です。
なかなか自分の思う表現が出来ないと引用をします。
しかし、自身の内なるものを表現するのは人間だけに出来る事であり、故に人間として持つものが表現にあるのだと思います。
そして、表現をする衝動に駆られるのだと思います。
人間が行う「表現」にその崇高さを思います。
この信濃デッサン館にある野田英人の「野尻の花」。
脳腫瘍による目の変調を、作品を完成させるために、瞼にテープを貼りながら目を強制的に開けて、作品を完成させる執念。
周りからは狂気と思える村山槐多の作品への取り組み。
中学生の時に脳脊髄膜炎で聴覚を失った松本俊介。
戦争一色の暗い世相の中で、芸術への軍部の不干渉を貫く、芸術の自立。
ベートーヴェンにしても、ゴッホにしても、カミュにしても、常人には理解できる範囲を超えての至高の芸術であるからこそ、人を感動させるのだと思います。
私は生きるという事を、何だかとても感じ考えました。
夕方4時。
龍光院の鐘の音が響き渡りました。
この信濃デッサン館の隣は「萩の寺・前山寺」です。
ここに推定樹齢700年を超える樹があります。
この記事の前の記事の事。
そして営々と続く人間の営みを700年という時の中で見おろす大樹。
人の人による普遍性を思う一日でした。
*記事中の個人名敬称は略させて頂いております。
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