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2012年4月29日 (日)

親父の恋 お袋の恋

2012040802

東京での打ち合わせを終えて、一緒に仕事をしている企業の担当者と共に、現場へと向かう事になりました。
東京発は17時過ぎです。
新幹線の席は別々で、私は現地でレンタカーを運転する必要があった事から、アルコールは飲みませんでした。
相手には私は気にならないので、どうぞと話しておきました。

降車駅で再会をすると、いい顔つきで「誘惑に負けました」と話していました。
酔いもあったと思いますが、レンタカーの中でも饒舌で、互いの事をいろいろと話しました。
年齢は私とひとつ違いで、子供が3人います。
一番上は女の子で高校生1年生です。

サービスエリアのレストランで遅い夕食をする事としました。
その席で、その高校生1年生の話となり「彼氏がいるかとか、心配でしょ」なんて話していたのです。
私の高校2年生の男子の事にも話が及び息子の彼女について、どう思うかなんて訊かれたのです。
私は「当人同士の事だから、親が言っても始らないしね。
でも、国名や場所もわからない、言葉も文化もよく知らないところはびっくりするだろうけど」と返答しました。

「自分より年上なんて、どうですか?」
「そりゃ、びっくりするよね。なんて呼ぶのかな」なんて笑っていました。
重ねて訊いてきました。
「それでは、福島県の人だったら、どう思います?」
「なんだ、そりゃ」

彼は自分の子供が福島県出身の人と結婚すると言ったら考える。
この話は先般、仲間同士の飲み会の席で、キレイ事ではなく、その席に居合わせた人で、真面目に考えてみろとの話になったとの事です。

結婚では、お互いの背景が少なからず影響する事は否定しません。
でも、今のご時世スタートはまず当人同士の問題です。
その人の、その背景を知ってから、好きになるとか、そんな器用な事は出来ないでしょう。
そんな事がその人を求めるいちばんの事であるならば、その後の生活はいつまでも満たされないでしょう。

私は答える替わりに、こう訊きました。
「立場が変わることもあるって、考えた事があるのか」
「私もそれを考えました」と返答してきました。

私の態度が急変した事を相手も感じていたと思います。
私は残念な気持ちから、怒り心頭で心の中では「絆…笑わせる話だ」と思っていたのです。
私は答えました。

結婚するのは私ではなく子供だ。
自分の子供の事を愛しんでくれ、自分の息子が一生をかけて愛していこうと思った人であれば、応援しこそすれ、否定する事はないだろう。
私は自分の子供を、そういう覚悟が出来る男に育てて行くと返答しました。

こうして、言われなき事で、何度も傷つく人がいると思う。
それだけで怒り心頭だったのです。

でも、今こうして文章にしていると、私は彼の迷いも感じるのです。
自分の中で迷いがあるからこそ、きっと私に問いかけてみたのだろうと思うのです。

私の親父は6人兄弟の末っ子です。
お袋はふたり姉弟で、高知県の出身です。
親父の実家は、その前は良く聞いた事がなく知らないのですが、元禄の頃から呉服屋が家業でした。
現在の住まいの地域を中心に、いくつかの支店もあり、大きく商売をしていたそうです。
結婚前のお嬢さんが、行儀見習いにも来ていたそうです。

子供の結婚は当時の社会背景があると思いますが、親が決めるものでした。
男の子は近所で家同士の取り決めから。
平たく言えば、素性のわかるもの同士。
女の子は自分の家よりも大きな家に…というのが不文律だったそうです。

私の両親は共に太平洋戦争中に生まれています。
若かりし頃は、テニスやダンスでデート?もしていたみたいです。
話してくれと言った覚えはないのですが、幼い頃聞いた事があります。
私が音楽を自分の選択で聴き始めた頃、ダンスステップの解説がついたレコードを見つけて、これなんだ?と思った覚えがあります。
大学生の頃と親父とマジで意地になってテニスで対決した事があります。

さて、親父とお袋が結婚するとなった時、詳しい場面は聞いていませんが、反対されたそうです。
そりゃ、江戸時代からたどって、恋愛結婚は初めてなわけですから。
しかも、当時の当主(私のおじいちゃん)からすれば、高知県は海の向こう四国にある外国みたいなものです。
おじいちゃんにはもう、親父の嫁にと考えていた、見当をつけていた人がいたのだと思います。

親父は賛同と了解を得られないと判断すると「ならば、自分の意志をつらぬくのみ」と言って家を出て行ってしまったそうです。
やったぞ親父。
お袋を連れて飛び出したものの、その日の眠る場所にも困り、どこだかは知りませんでしたが、これまで宿泊した事がある旅館だかに「布団部屋でもいいから泊めてください」とお願いしたそうです。
ところが、通される部屋は特別室。
持ち合わせが少ない事を説明しても変わりません。

これはおばあちゃんが行く先の見当をつけており、「来るかもしれないから」と先に連絡し、お金を行く先々においていったそうです。
ダメだな親父。
親父が生まれた時からお手伝いさん(当時は子供ひとりに、ひとりいたそうです。親父はこのお手伝いさんに幼い頃肩車をしてもらったのですが、嬉しくて暴れて下に落ち、頭を怪我しました。その傷跡でハゲになっているところと、その現場の敷石で説明された事があります)が、その方が追いかけていたのだと思います。
紆余曲折があり、最後はおじいちゃんが私のお袋をいちばん気に入ったそうです。
お袋はそれからもいろいろ苦労したみたいだけれど…。

親父はサラリーマンだったし、私が生まれてからしばらくして、呉服屋は支店を全て従業員の方に暖簾分けし、家業としては廃業をしました。
先代(親父の兄弟の長兄)は別の事業を始めました。
私は呉服屋の記憶が殆どありません。
かすかに店舗のバックヤードで、大勢の人とごはんを食べるのが楽しかったという記憶が、本当にかすかに残っています。

結婚してから私が生まれるまでの間、お袋は呉服屋を手伝いに行っていました。
お袋は言わないけれど、古いしきたりが多く残る世界だし、慣れない世界だし、慣れない仕事だし、苦労もあった事と思います。
傷つく事もあったでしょうが、親父と育む愛情が傷つく事はなかったのでしょう。

前の1行を書いて、思い出しました。
谷川俊太郎さんの「生きる わたしたちの思い」という詩集にこんな詩があります。

こころやからだが傷ついたとしても
愛する気持ちにはかすり傷すらつかないこと

しおり
愛する気持ちは、なにものにも侵されることはなくて、なにかつらいことや悲しいことがあっても、ただ愛する人を想えばこころもからだも癒される、という思いをつづりました。

生きる わたしたちの思い/谷川俊太郎

彼にこんな詩がある事を、私も飲んで話せばよかったかな…と思います。
飲んでないと、照れちゃうかもしれないからね。

2012041505

さて、私にもしっかり親父の血を受け継いでいると実感する出来事がありました。
その話は、また別の機会に。

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